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2013年08月25日05:55

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マインドが充分に鋭敏でないと、あなたは社会に隷属してしまうだろう。

ちょうど今朝たくさん浮かんだ中のひとつが、シャンタンさんの日記とシンクロしてたので、転載させていただきます。

私はよくスピで言われているように ”マインドを無くす” のではなく、願望実現するときには『意図してマインドを使ってた』んでした。


以下転載です。





質問:

 サニヤシンになって以来、ハートと共にあるには、

マインドをあまり使わないようにと考えてきました。

でもある日、あなたが私たちの知性を保ちつつ、

それをより鋭くするために、マインドも訓練しなくてはならないと

仰るのを聞きました。

これをご説明いただけますか?






OSHOの答え:

 生はあなたが考えているほどシンプルではない。

それはとても複雑だ。

確かに、あなたが私と共にありたいなら、

もっともっとマインドではなく、ハートの中にいるだろう。

マインドには内なる成長への資がないからだ。

外側の調査目標や、科学的な活動に対しては途方もない力を発揮するが、

宗教性の成長においては全くの無能だ。


 もしあながた私を、マインドを通して聞くなら、

私の言うことは砂漠で迷子になるようなものだろう。

決してハートに届かない。

だから私はいつも、マインドを脇においてあなたのハートと共に、

愛と共に、信頼と共に聴きなさいと言っている。


 だが、それは話の半分に過ぎない。

マインドをできる限りシャープにしなさいと言う時は、

根本的に異なる側面について語っている。

マインドが充分に鋭敏でないと、あなたは社会に隷属してしまうだろう。

反抗的ではなく従順であったために、あなたは既に社会に隷属してきた。


 この二つの言葉は、異なる状況に属しているから、混同しないように。

あなたのハートと共に、マインドをかたわらに置いて、

私の側にいなさいというのは、弟子という情況での言葉だ。

もしあなたが真にトータルに行うなら、

その最高峰、帰依者になるだろう。


 三つの段階があり、生徒はただマインドで聴き、

知識を集めるが知者にはならない。

弟子はマインドを脇においてハートで聴こうとする。

彼は努力するが、マインドは何度も何度も戻ってくる。

努力はトータルなものではなくてもいくらかの種子がハートに至るなら、

すぐにあなたの実存の色彩を、塗り替えてしまうだろう。

ハートが花開き始める季節もそう遠くない。

そこが帰依者となる境界線となる。

 もうあなたはマインドではないかのように、

邪魔にならないように、完全にマインドを脇に置くことができる。

ただ、ハートとハートだ。

あなたの弦ひとつひとつが、愛、開いていること、

感じやすさに震えている。

帰依者とマスターは、互いに溶け合い始める。

 弟子は時たま一瞥を得るが、帰依者はマスターとトータルにひとつだ。

弟子は再びマインドに落ちることにがあるが、

帰依者はマインドに戻る橋を壊してしまったのだ。

彼は戻れない。

過去は終わった。

彼はマスターのエナジーの一部となる。


 これが一方の情況だ。そしてあなたは、これを別の情況と混同している。

社会や外側の世界、宗教や政府に関する限り、

あなたは実に賢明で、とても知的である必要がある。

でなければ隷属させられるだろう。

何世紀にも渡ってそうしてきたように、彼らはあなたを搾取する。

彼らは妨げてきた――何百万もの人々が、

マインドに関して13歳より上に成長することを。

70歳になるというのに、13歳の子供のようなマインドしかない。

これが私の言う白痴化だ。


 社会はあなたに成長してほしくない。

ただ老いてほしい。

ロボットか機械のように――まったく従順に、反抗せず、

疑問も持たず――機能してくれればよいのだ。

ただ役立ってくれればいい。

社会にとってあなたは尊敬に値する人間ではなく、

使用するメカニズムにすぎない。

人を機械や物のように扱うことほど、侮辱的で恥ずかしく、

醜いものはない。


 社会に対抗するためにマインドを使いなさい。

あなたの独立を保ち、油断なくいるためには申し分のない手段だ。

愛する者ではないにせよ、それは良き戦士なのだから。

必要のある時、あなたの自由のために立ち上がる必要があれば、

マインドを使いなさい。

ハートは何の役にも立つまい。

ハートは戦い方すら知らないのだから。

 だが情況はまるで違っている。

私が意識的な人と呼ぶとき、その能力を適切な情況で活用でき、

混同しないことを言っている。

目は見るものだから――それで聴くことはできない。

耳は聴くものだから――それで見ることはできない。

必要のあるときはいつでも使い、

別の目的に役立てようとはしないことだ。

 マインドはすばらしい道具だ。

鍛えなくてはならないが、その限界は覚えておきなさい。

ハートに従わせることだ。

それが主人のように振る舞い始めた瞬間に、ハートは死んでしまう。

ハートは隷属しては存在できない。
 
 だから、私の言葉にはどんな矛盾もない――

ただ二つの異なる情況がある。

そしてあなたの意識はどちらでもない。

意識的な人は必要ならハートを使い、必要ならマインドも使える。

完全なニルヴァーナの状態――マインドもハートも必要のないところ

――に入りたいときには、どちらも黙らせてしまう。

彼自身でありたいときには、どちらも必要ないからだ。

 あなたが道具の主人なら、何の問題もない。

あなたがフルートを吹いていて、あなたに

「しばらくの間演奏を止められますか――あなたと話したいので」

と頼んだとき、「できません、フルートが止らないのです」

と言うなら、あなたをどう思うだろう? 

あなたは狂人に違いない。

フルートが止らないって? 

それならあなたがフルートを演奏しているのではなくて、

フルートがあなたを演奏しているのだ。

あなたがマインドを止めたいときにはただ「止れ」

と言い、止らなくてはならない。

もしほんの少しでも動くなら、

何か早急に手を打たなくてはならないだろう。


これは危険な徴候だ。


召使いが主人になろうとしている。


召使いは召使い、主人は主人でなくてはならない。



この両方の向こうに、召使いでも主人でもないあなたの実存が、




ただそこに在る。






この〈在る〉ことが、すべての瞑想のゴールだ。






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