ちょうど今朝たくさん浮かんだ中のひとつが、シャンタンさんの日記とシンクロしてたので、転載させていただきます。
私はよくスピで言われているように ”マインドを無くす” のではなく、願望実現するときには『意図してマインドを使ってた』んでした。
以下転載です。
質問:
サニヤシンになって以来、ハートと共にあるには、
マインドをあまり使わないようにと考えてきました。
でもある日、あなたが私たちの知性を保ちつつ、
それをより鋭くするために、マインドも訓練しなくてはならないと
仰るのを聞きました。
これをご説明いただけますか?
OSHOの答え:
生はあなたが考えているほどシンプルではない。
それはとても複雑だ。
確かに、あなたが私と共にありたいなら、
もっともっとマインドではなく、ハートの中にいるだろう。
マインドには内なる成長への資がないからだ。
外側の調査目標や、科学的な活動に対しては途方もない力を発揮するが、
宗教性の成長においては全くの無能だ。
もしあながた私を、マインドを通して聞くなら、
私の言うことは砂漠で迷子になるようなものだろう。
決してハートに届かない。
だから私はいつも、マインドを脇においてあなたのハートと共に、
愛と共に、信頼と共に聴きなさいと言っている。
だが、それは話の半分に過ぎない。
マインドをできる限りシャープにしなさいと言う時は、
根本的に異なる側面について語っている。
マインドが充分に鋭敏でないと、あなたは社会に隷属してしまうだろう。
反抗的ではなく従順であったために、あなたは既に社会に隷属してきた。
この二つの言葉は、異なる状況に属しているから、混同しないように。
あなたのハートと共に、マインドをかたわらに置いて、
私の側にいなさいというのは、弟子という情況での言葉だ。
もしあなたが真にトータルに行うなら、
その最高峰、帰依者になるだろう。
三つの段階があり、生徒はただマインドで聴き、
知識を集めるが知者にはならない。
弟子はマインドを脇においてハートで聴こうとする。
彼は努力するが、マインドは何度も何度も戻ってくる。
努力はトータルなものではなくてもいくらかの種子がハートに至るなら、
すぐにあなたの実存の色彩を、塗り替えてしまうだろう。
ハートが花開き始める季節もそう遠くない。
そこが帰依者となる境界線となる。
もうあなたはマインドではないかのように、
邪魔にならないように、完全にマインドを脇に置くことができる。
ただ、ハートとハートだ。
あなたの弦ひとつひとつが、愛、開いていること、
感じやすさに震えている。
帰依者とマスターは、互いに溶け合い始める。
弟子は時たま一瞥を得るが、帰依者はマスターとトータルにひとつだ。
弟子は再びマインドに落ちることにがあるが、
帰依者はマインドに戻る橋を壊してしまったのだ。
彼は戻れない。
過去は終わった。
彼はマスターのエナジーの一部となる。
これが一方の情況だ。そしてあなたは、これを別の情況と混同している。
社会や外側の世界、宗教や政府に関する限り、
あなたは実に賢明で、とても知的である必要がある。
でなければ隷属させられるだろう。
何世紀にも渡ってそうしてきたように、彼らはあなたを搾取する。
彼らは妨げてきた――何百万もの人々が、
マインドに関して13歳より上に成長することを。
70歳になるというのに、13歳の子供のようなマインドしかない。
これが私の言う白痴化だ。
社会はあなたに成長してほしくない。
ただ老いてほしい。
ロボットか機械のように――まったく従順に、反抗せず、
疑問も持たず――機能してくれればよいのだ。
ただ役立ってくれればいい。
社会にとってあなたは尊敬に値する人間ではなく、
使用するメカニズムにすぎない。
人を機械や物のように扱うことほど、侮辱的で恥ずかしく、
醜いものはない。
社会に対抗するためにマインドを使いなさい。
あなたの独立を保ち、油断なくいるためには申し分のない手段だ。
愛する者ではないにせよ、それは良き戦士なのだから。
必要のある時、あなたの自由のために立ち上がる必要があれば、
マインドを使いなさい。
ハートは何の役にも立つまい。
ハートは戦い方すら知らないのだから。
だが情況はまるで違っている。
私が意識的な人と呼ぶとき、その能力を適切な情況で活用でき、
混同しないことを言っている。
目は見るものだから――それで聴くことはできない。
耳は聴くものだから――それで見ることはできない。
必要のあるときはいつでも使い、
別の目的に役立てようとはしないことだ。
マインドはすばらしい道具だ。
鍛えなくてはならないが、その限界は覚えておきなさい。
ハートに従わせることだ。
それが主人のように振る舞い始めた瞬間に、ハートは死んでしまう。
ハートは隷属しては存在できない。
だから、私の言葉にはどんな矛盾もない――
ただ二つの異なる情況がある。
そしてあなたの意識はどちらでもない。
意識的な人は必要ならハートを使い、必要ならマインドも使える。
完全なニルヴァーナの状態――マインドもハートも必要のないところ
――に入りたいときには、どちらも黙らせてしまう。
彼自身でありたいときには、どちらも必要ないからだ。
あなたが道具の主人なら、何の問題もない。
あなたがフルートを吹いていて、あなたに
「しばらくの間演奏を止められますか――あなたと話したいので」
と頼んだとき、「できません、フルートが止らないのです」
と言うなら、あなたをどう思うだろう?
あなたは狂人に違いない。
フルートが止らないって?
それならあなたがフルートを演奏しているのではなくて、
フルートがあなたを演奏しているのだ。
あなたがマインドを止めたいときにはただ「止れ」
と言い、止らなくてはならない。
もしほんの少しでも動くなら、
何か早急に手を打たなくてはならないだろう。
これは危険な徴候だ。
召使いが主人になろうとしている。
召使いは召使い、主人は主人でなくてはならない。
この両方の向こうに、召使いでも主人でもないあなたの実存が、
ただそこに在る。
この〈在る〉ことが、すべての瞑想のゴールだ。
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