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2013年06月21日01:36

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裁判員の苦悩

裁判員裁判の死刑判決を破棄
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=2474365

前にも、何度か日記に書いたことがあるが、僕は過去に一度、最高裁判所から裁判員に選ばれたという通知が来たことがある。
幸い、その後1年の間、該当する裁判員裁判の抽選に漏れた為、直接裁判所に呼びだれることなく、1年間の任期を終えたが、その1年間は、何時呼び出されるかと、ドキドキしたものだった。

裁判員裁判では、どちらかというと死刑や無期懲役など、被告人の一生を左右するような判決を下す裁判が多い。
僕が裁判員の通知を貰った時も、丁度京都の舞鶴で女子高生が殺害された事件の裁判が裁判員裁判で裁かれるかどうか、という時期だった。

だから、僕自身、もし自分が裁判員として法廷に参加することになった時のことをよく考えたことがある。
僕自身、死刑制度については賛成の立場である。
だから、凶悪な事件の犯人が、裁判で死刑判決が出たというニュースを目にしても、犯人の犯した罪の重さからすれば、当然であると思うし、死刑判決が出たなら、速やかに刑は執行されるべきであると、そう考えている。

だが、これはあくまで、自分が裁判とは全く関係のない所で、ニュースや記事を目にして思うことだ。
実際に、自分が裁判員として、被告人を目の前にし、果たしてニュースや記事を目にした時のような感じで、被告人に向かってその人の人生を左右するような判決を下せるかと言われれば、決してそうではないだろう。

被告人が無罪を主張していた場合などはなおさらだ。
自分たちの下した判断で、もしかしたら無実かもしれない人間の人生が左右される。
場合によっては、その命を奪ってしまうことになる。

そう考えると、僕にとって裁判員として人を裁くことは大変なストレスであり、況してや今回の記事のように、裁判員が死刑の判決を下すというのは、議論に議論を重ねた上での判断であったと思うのだ。

もし、僕が裁判員として死刑の判決を下した人間の刑が執行されたら。
僕はどんな気持ちになるだろう。
例え、それが被告人の犯した罪の償いで、議論に議論を重ねた末での判断だったとしても、自分が下した判断によって一人の人間の命を奪ってしまったという事実は、一生自分の中で残り続けるだろう。

だから、もしかしたら裁判員の方の中には、今回の死刑判決破棄を心のどこかで、ホッとした気持ちで受け止めている方もいるかもしれない。
仮にこの後、最高裁で再び死刑判決が出たとしても、今回の破棄によって、裁判員の心の中では、一度下した判決はリセットされたことになる。

しかし、高裁の下した判断は、裁判員裁判という市民感覚での判断とは、大きく異なる判断であったことは確かだ。
それは量刑の重さという意味以上のもので、市民感覚では、過去に一度殺人を犯した人間が服役し、出所したにもかかわらず、出所後半年で、強盗殺人を犯した、そのことに対して罪の重大さを感じているのだ。
つまり、更正を意味する出所によって、同じ一般市民の命が奪われた。
それは、前の犯罪による裁判の量刑の妥当性を疑うものでもあり、その量刑の判断の誤りによって、一般市民の命が奪われたとも言えるのではないかということ。
そして、そこにはこの被告人の更正を疑うものでもあるということ。
これが市民感覚での判断であったと僕は思うのだ。

もし、高裁の下した判断が支持され、この被告人の死刑が免れたら、この被告人はいずれまた、社場に出てくる。
日本における無期懲役は、終身刑ではないからだ。
その時、もしもまた、この被告人が同じ犯罪を繰り返したなら、果たして罪は被告人だけにあると言ってよいのだろうか。
更正の余地があると判断した裁判官にも、責任はあるんじゃないだろうか。

市民感覚の判断は、判例だけでは量れない。
何人殺害したから死刑という判断では量れないのだ。
そこに裁判員裁判の意味があり、もしこの市民感覚を尊重せずにあくまで判例に基づくなら、裁判員裁判は必要ない。
裁判員の方は、苦役を承知で裁判員裁判に参加し、身を削って判断を下すのだから。
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