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2013年05月25日12:16

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家族の死と僕の死

■家族承諾、「社会貢献」最多=脳死移植150例検証―厚労省
(時事通信社 - 05月24日 22:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2441537

もし。
僕の嫁や息子たちが脳死になったら。

僕はきっと、臓器提供に承諾しないだろう。

人の死には2種類ある。
一つは脳死。
そして、もう一つは心臓死だ。

人の死を考える時、必ず出るのは、脳死が人の死か、ということ。
いや、脳死を人の死として受け入れられるか、と言い替えた方が良いかもしれない。

心臓が止まると、全身に血液を送れなくなる。血液を送れなくなれば、他の臓器は、心臓と同じように死んでしまう。
つまり、人の死だ。

だが、脳死の場合、脳は死んでいても、心臓が動き続けている限り、他の臓器は生き続ける。
手足を触っても、体温を感じる。
そのような嫁の姿を、また息子の姿を僕は、きっと死として受け入れることができないだろうと思うのだ。

きっと、心臓さえ動き続けていれば、もしかしたら、もしかしたら、もう一度目を覚ます時がくるかも知れない。
そう信じることで、僕は望みを繋ぎ、奇跡が起こることを待ち続けることだろう。

臓器提供に承諾するということは、愛する嫁や息子たちの脳死を、人の死として受け入れられなければ、決して承諾することはできないのだ。

でも、もし脳死を人の死として受け入れられれば。
臓器提供は、家族の希望に変わることだってある。
それは社会貢献という意味ではない。
臓器を提供するということで、例え自分の愛する嫁や息子が亡くなったとしても、自分の愛する嫁や息子の身体の一部は、どこかで生きていると考えることもできるからだ。

では、もし。
僕自身が脳死になったら。

僕は、家族にはその脳死が、僕自身の死として受け入れてもらいたいと思っている。
何故なら、僕が脳死のままで、いつまでもいることは、家族にとってやがて負担になるからだ。
いつ終わるともわからない看病が続くし、それ以上に莫大なお金がかかるからだ。
そんな迷惑を、僕は家族にかけるわけにはいかない。
僕は、家族を愛しているから。

だから、もし、僕の脳死が僕の死として受け入れることが難しいなら、僕は自身の臓器を喜んで提供するだろう。
そうすることで、僕は死んでも、僕の身体の一部は、誰かの中で生きていくことができる。

そう考えることで、家族が僕の死を受け入れてくれるなら。
僕は、臓器を提供したいと思う。
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