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2013年04月17日11:33

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倫理と信仰

■「エホバの証人」信者の家族が輸血拒否…死亡
(読売新聞 - 04月16日 21:44)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2397011

倫理の話をしてみたい。

倫理とは、その人の育った環境や置かれている環境によって構築される価値観だ。
そして、人それぞれがその価値基準に合わせた常識の物差しを持っている。

だから、僕らは自分の常識の物差しに合わない人を見かけると、その人を非常識に思ったり、奇異に感じたり、その人の行動を理解できなかったりする。

僕らは、言ってみれば、物事を自分の常識の物差しの中で、常識・非常識を判断しているのだ。
その判断が本当に正しいかどうかは、人それぞれの物差しの価値基準によって変わってくる。
人によっては正しいと言う人もいるし、正しくないと言う人もいるだろう。
本当は、正しいかどうかではなく、同意できるかどうかなんだろうと思う。

例えば、ここに全知全能の存在としての神を本気で信じている人がいるとする。
神は、全知全能であるから、この宇宙も動物や植物も、全ては神が創造された。
勿論、人間も例に洩れず。
その神が創造された人間は、いわば神の作品なのだ。
その人間の身体を、例え命を救うためとは言え、神に許可も得ず、勝手に他人の臓器を移植したり、他人の血液を輸血したりする行為は、神に対する冒涜になる。
人間は、神から与えられた身体で、その命を全うする、それこそが人間の正しい生きる道なのだ。

そう考えている人がいたらどうだろう。
この人にとっては、例え自分や自分の愛する家族の命であっても、その命が潰えるのは、神の思し召しであるのだ。
そして、神の意に反して、その命を長らえようとし、況してや神から与えられた身体を勝手に移植したり、輸血しようものなら、神に対するとんでもない冒涜であり、その人の価値基準で言えば、倫理に反する行為なのだ。

だが、こうした信仰を持たない僕たちには、この人の考えや行動が、とても奇異なものに映る。
そして、家族の命を救おうとしない行為こそが、倫理に反する行為に映ってしまう。

しかし、これは正しい、正しくないの話でなく、同意できるかどうかの話なのだ。
僕たちの常識の物差しと、この人の常識の物差しがあまりにかけ離れているから、僕たちの常識でこの人の考えを判断することができないのだ。

この男性は、自分が信者かどうかは別にして、きっと自分の母親の常識の物差しで、今回の輸血を判断したのだろう。
この母親にとっては、輸血は神への冒涜であり、倫理に反する行為だからだ。

思うのは、こうした常識の物差しは、それぞれの家庭での環境が大きく影響するということだ。
その物差しは、僕だけでなく、やがて子供たちに受け継がれる。
だから、家庭環境における親の責任は大きいのだと思う。
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