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2013年03月26日18:15

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道徳について思うこと

■「道徳」の教科化、前倒しを検討…文科省
(読売新聞 - 03月26日 08:47)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2370666

道徳について、少し思うところを書こうと思う。

僕は昭和49年の生まれで、確か小学生の頃は、教科として道徳の授業があったと記憶している。
だが、その道徳の授業では、どんなことをしていたのか、と言われるとそれがサッパリ憶えてないのだ。
まあ、かれこれ30年前の記憶だから、そんなものなのかも知れない。
ただ、うっすらとした記憶の中に、当たり前のことを先生が仰っていたということを印象として憶えている。

道徳とは、物事の善悪のうち、どのような行いが善であり、悪であるかを教えることなんだろう。
且つ、その物事の善悪は、法的にであるといった外的な縛りのもとでの取り決めでない。
あくまで、人としてその内面的な善悪の考えに基づいた行いを指すのだろう。

道徳教育については、必要性に異議を唱える人がいるというのは、僕は道徳のこの内面的な善悪に基づいた考えにあるんじゃないかと思うのだ。

例えば、いじめはしてはいけない。
これは、わざわざ道徳で教えなくとも、当たり前の話だ。
これをもし、いじめはしてはいけないとわざわざ教えなければわからない人がいるとしたら、これはその子の躾や家庭環境のレベルで何か大きな欠落がある。
赤ちゃんと一緒だ。

では、何故いじめがなくならないか。
それは皆、例えそれがいじめの加害者としても、いじめはしてはいけないことくらいは知っているし、いじめは悪であることを知っているのだ。
知っていて、加害者はいじめをやっている。
だから、いじめは表面化しにくい。
加害者が物事の善悪がわからずやっていたなら、被害者が訴えずとも、いじめは表面化するからだ。

つまり、道徳を授業として昇華するには、"いじめはしてはいけない"という当たり前の善悪を教えるだけではなく、

"何故いじめの加害者は、いじめをしてはいけないとわかっているのに、やってしまうのか。"
というところまで、踏み込んでやる必要がある。

そして、"何故、周りはいじめをしてはいけないとわかっていて、そのいじめの現場を見ているのに、誰も止めようとしないのか。"

また、"学校の先生は、何故いじめについて知っているのに、それを隠そうとするのか"

ということも、真剣にいじめについて道徳として取り上げるならば、考える必要があるだろう。

だが、これを考えるのは、先生を含めたすべての人にとって、耳障りな話になってしまう。

しかし、これこそが僕たち人間の本質的な心の中にある悪なのであり、これを考え見つめることができなければ、道徳の授業は極めて当たり前の善悪を教えるだけの表面的なものになってしまう。

はたして、今の学校でこのような授業をすることができるだろうか。
できるのならば、僕は道徳の授業は極めて意味のある授業になると思う。

最後に道徳の授業の前に、僕は親として必要な前提があると思っている。

それは、両親や先生、目上の人に対して敬う気持ちをきちんと、親が我が子に躾することだ。
そして、先生は生徒にとって、人生の先輩として、学業の師として尊敬すべき存在であらんとすること。
この前提は、今の子供と親、子供と先生の関係性の中で、一番大切なことのような気がする。

間違っても、子供の目の前で夫婦が学校の先生をバカにするような会話は避けたいものだ。
2人の息子の父親として、そう思う。
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