■罰当たり、法隆寺に「捨て観音」…江戸期の作か
(読売新聞 - 03月07日 08:57)
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もしかしたら、これから罰当たりな日記を書くかもしれない。
先日、家の郵便受けに、パンフレットが入っていた。
見たら、あるキリスト教系の宗教団体のパンフレットだった。
勧誘に来たが、留守だったからパンフレットだけでもと、郵便受けに入れたのだろう。
僕は、家に入るなり、そのパンフレットをグシャグシャにして、ごみ箱にポイと捨てた。
それをたまたま嫁が見ていて、僕に言った。
「えー、よく宗教関係のパンフレットをそんな風に捨てれるなぁ。
私なんか、罰が当たるような気がして、そんな風に捨てられへんわぁ。」
だから、嫁はそういったパンフレットを貰うのも厭らしいのだ。
気分的に気持ち悪くて、処理に困るかららしい。
僕は嫁に、
「いやいや、僕の実家は、臨済宗やから、関係ないやん。
僕からしたら、このパンフレットは、そこらにあるパンフレットと同じやし、まさかキリストも、信仰のない人にまで神罰を当てる力はないやろぉ。」
と、笑って言った。
ちなみに嫁の実家は、真言宗だからクリスチャンとは何の関係もない。
法隆寺に仏像を持ち込んだ人は、いくらか仏罰を怖れていたんじゃないかと、僕は思う。
もし、僕のように、その人が仏教に対して信仰心がなく、かつ気にしないタイプならば、仏像なんて、単なる仏の形をした人形に過ぎない。
もし、人形をしているものを捨てることに躊躇わないならば、必要ないなら仏像だってごみ箱にポイと捨てることができるだろう。
だが、そうせずに寺に持ち込んだということは、処分に困ったということで、そこには仏教への信仰心までいかなくとも、仏像を捨てることへの仏罰をいくらかは気にしたんじゃないだろうか。
寺側は、所有権を放棄しているらしいので、もし持ち主が現れなければ、仏像は警察によって、売るか、処分されるのだろう。
こうなると、何が罰当たりかわからなくなるが、実は罰当たりでも何でもない。
何故なら、売ったり捨てたりする方が信仰心もなく気にもしなければ、仏像は人形と同じなのだから。
仏様も、信仰心のない人にまで仏罰を当てることはできない。
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