■「殺意ない」2幼児餓死、母親の控訴審初公判
(読売新聞 - 09月12日 19:59)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2152320&media_id=20
昨日に続いて、大変重い内容の日記を書こうと思う。
本当は、楽しい家族の話題の日記が書ければ良いのだが、このニュースに関しては、どうしても日記として残しておきたいことがあるのだ。
というのは、僕には、下村被告と同じく、3歳と1歳の子供がいる。
3歳の息子、はるちゃんは今年の11月で4歳に、1歳の息子、みのりくんは来年4月が来ると2歳になる。
僕の2人の息子は、日々成長し、大きくなっている。時は流れ、やがては2人とも僕たちの元を巣立って行くのだろう。
だが、下村被告の亡くなった子供たちの時間は、あの日を境に止まってしまった。
この先、どれだけ時が経とうと、2人は、ずっと3歳と1歳のままだ。
はるちゃんとみのりくんがこの先経験する、様々なことも、亡くなった2人は経験することができない。
この未来ある2人の子供の時間を永遠に止めたのは、2人の子供のお母さんだ。
本来は、愛され慈しまれる存在であるはずの母親によって、尊い2人の命は亡くなってしまった。
子供を持って思うのは、親というのは、自分を犠牲にしてでも、子供を護ろうとするものであるということ。
これは、僕が結婚し、子供ができて初めて感じたことで、独身のころは、そんな気持ちは、正直理解できなかった。
子供を持って、初めて親の気持ちが理解できたし、自分の親がどんな思いで、僕を育ててくれたかを理解することができた。
今、自分を育ててくれた両親に感謝する気持ちを持てるのは、2人の息子、はるちゃんとみのりくんのおかけだ。
そして、僕が2人の息子に注ぐ愛情は、僕の両親が僕に注ぐ愛情を見てきたおかげなのだろう。
こうやって、僕らは親から子へと、その思いを伝え、受け継いでいくのかもしれない。
だが、下村被告を見ていると、我が子の為に自分を犠牲にするという、子供への愛情であったり、思い遣りであったり、というのがスッポリと抜けているような気がするのだ。
下村被告にあるのは、自分の欲求や欲望しかない。つまり、自己愛しかないように、僕は感じるのだ。
これは、もしかすると、下村被告自身の生い立ちにも関係しているのかもしれない。
彼女に、自分の親が自分を愛情を持って育ててくれた、という認識がないのかもしれない。
だから、人に向ける思い遣りや愛情が理解できない。
だから、彼女にとっての愛情は、すべて自分に向けられている。
この日記は、もしかしたら、僕と同じように、下村被告と同じくらいの子供を持つ、パパやママが読んでくださっているかもしれない。
だから、わかっていただけるだろうが、パパやママだって、自分の時間が欲しいし、遊びにだって行きたい。
自分の思うがまま、自由な暮らしがしたい。
これは、当たり前だ。
だが、そこに愛する我が子がいたら、パパやママは、自分を犠牲にしても、我が子の為に何かをしようとするものなのだ。
これが、子供を持って初めてわかる、子供への親の気持ちであり、愛情だ。
僕らも、そうやって両親に育てられた。
下村被告には、それが理解できない。
下村被告にとっての不幸はそこだ。
だが、下村被告のやったことは、決して許されるものではない。
下村被告が理解できないにしても、亡くなった2人の子供は、ママが好きでママの帰りをずっと待っていたのだ。
その気持ちを考えると、殺意がなかったからと、罪の軽減を主張できるものではないはずだ。
大変重い内容の日記になってしまい、申し訳ありませんでした。
今度は、明るい家族の話題の日記を書ければいいな。
ログインしてコメントを確認・投稿する