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2012年09月04日14:10

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今はただ感謝。



フォト




8月30日午前3時18分。
父が亡き母の元へ旅立ちました。

大好きなジャズを聴きながら、
可愛い孫たちに手を握ってもらいながら、
家族全員に見守られる中、
眠るみたいに穏やかに息をひきとりました。

生前、石原裕次郎さんに憧れつつ、

「パパと裕次郎の違いは足の長さだけや。」

などと、とても厚かましいことを言っておりましたが、
片耳でジャズを聴きながら、片耳で子ども達の声を聞いて旅立つだなんて、
いやどーしてなかなか、カッコイイ逝き方だったのではないかと思います。

写真は父が旅立った日の夕焼けです。
昼間は真っ青な晴れ空でした。
「嵐を呼ぶ男」にはどーしてもなれない晴れ男だったようです、うちの父(笑)

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娘の私が言うのも何ですが、父はとても教養の豊かな人ではありましたが、
ユーモアに溢れ、その知識を生きる糊代として存分に楽しむことのできる、
遊びの達人でもありました(笑)。
女の子にモテるから、という下心満載の理由で、
学生時代には通訳とバーテンダーのバイトをしていたような人ですウッシッシあせあせ(飛び散る汗)

ドライブがてら歴史探訪をして、
教科書に載っていないような歴史の裏話を面白おかしく話してくれたり、
映画や音楽、芸術の世界にも造詣が深く、驚くほどたくさんの作品を知っていて、
旧き時代の作品は殆ど父の影響で知ることが出来ました。

お酒がすすむとウクレレをかき鳴らして陽気に歌ったり、
気の利いたジョークで人を笑わせたり、
お酒は楽しく呑むもんだということを教えてくれたのも父だと思います。

傷つきやすいぶん、人の心の傷にもとても敏感で、
それをやさしいユーモアで救う達人でもありました。

とても情が深く、身内と思う相手にはペットでさえも、骨肉の愛を注ぐ人でした。

ジャズと、家族と、ビフカツと、阪神タイガースをこよなく愛する、
七十を過ぎてもどこか学生気分の抜けない、なんだかチャーミングな人でした。



最期、ふわりと手を宙に差し出しとったんは、、
ママが手をとってくれとったんやろか?


「ママは おばーさんじゃない!」


と、言って、孫達にも「ママ」と、呼ばせていた父(笑)

母の葬儀では、出棺の前に眠る母にキスをしようとしたのですが、
いかんせんお腹がつかえて唇に届かないわ、足は浮いてシーソー状態になるわ…
ほら、昔あったじゃないですか、熱力学で動く「水飲み鳥」って、おもちゃ、まさにあの状態(笑)


「お腹がつっかえとるがな」


という私の突っ込みで爆笑となった母の葬儀でしたが、
とにかく、パパと言えばママ、ママと言えばパパ、
と、いうくらい、娘達もアホらしくなるほどラブラブな夫婦だったので、
9年の歳月を経て、やっと再会できたと喜んでいるのではないかと思います。

ええ、今ごろキスの嵐でしょう(笑)


たくさんのお見舞いのお言葉や励ましのメッセージを、
ほんとうにどうもありがとうございました。
みなさんから頂いた想いはまちがいなく父の元に届いていると思います。

正直言って、もう長い間一緒に暮らしていなかったせいか、
イマイチ父がいなくなったことに実感が持てず、
今でも松阪の家にいるような気がしてしまいます。

これから折に触れ、その寂しさに涙することとなるのでしょうが、
ずーーーーっと昔から、
人は時間を味方につけることで、それを乗り越えてきてるのでしょうねぇ。

姉にも私にも、まだまだ育ち盛りの子ども達がいて、
仕事も向こうからやってきてくれます。
いつまでも泣いている余裕もないのもまた現実かもしれませんが、
父から受け継いだ愛おしくて大切なものを子ども達にも引き渡しつつ、
毎日をたいせつに過ごしてまいりたいと思います。





最後に…三重大学付属病院 第一内科とICUのスタッフのみなさまへ。

父を三重大に転院させることが出来て、私たちはほんとうに幸せでした。
ドクターのみなさま、ナースのみなさまの、
涙が出るほどの心のこもった治療や看護に、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。


看護師のみなさま、

父だけでなく私たち家族にも、いつも朗らかに声をかけてくださってありがとうござました。
父にいつも聴かせていたウォークマン、
バイパップの着け直しのあとも、ちゃんとイヤフォンを父の耳に挿し直してくださるその心意気がとてもうれしかったです(^^)

「これ何?」

と、流動食を指さす息子に、

「おじいちゃんのごはんだよ。ちょうど入れ換えるとこやから見てみる?」

「あ!ホットケーキの匂いがする!」

「ね?美味しそうな匂いやろ?これ、このまま飲むこともできるんよ〜(^^)」

子ども達ともそんな会話を交わしてくださって、傍らで聞いていた父も心が和んでいたと思います。



T先生、

ハードな当直続きの中でも

「今夜は僕がいますから大丈夫です。」

と、言ってくださる笑顔がとても頼もしかったです。

看取るために病棟に移ることを告げるときの先生の辛そうな表情も心に残ります。
I先生も、T先生も、辛い事実を私たちに伝えなくてはならないときはいつも、
こちらの心情を心細やかに感じとりながら、ご自分達も苦しそうにお話をしてくださいました。

最後の夜、病室にいらっしゃって、
笑顔がこぼれるような時間を過ごさせてくださったのは、
T先生の私たちへのお心遣いだったのでしょうね。
父の最期に花を添える、忘れられないひとときになりました。



I先生、

私が苦しい選択をしなくてはならなかった時、
先生のお言葉にどれほど慰められ、救われたことか。
今でもあの時のことを思い出すと涙が滲みます。

「栄養状態さえ上がれば、次の一手があったのですが…残念です。」

お別れの時に悔しそうに仰ってくださったそのお気持ちもまた、嬉しかったです。

ここでダメだったらどこに行ってもダメだっただろう、と、確信しています。
いえ、むしろ、もしかしたら7月の末日に死んでいたかもしれない父の命を、
ここまで引き延ばし、家族全員で見送ることが出来たのは、
ひとえに三重大の先生方のお力のおかげです。
姉も私も、三重大に父を移したことは本当に正解だったと思っています。




もしも父が元気になっていつもの父に戻ってたら、
きっと先生方やナースのみなさんにも父を好きになって頂いていただろうになぁ、と、
それだけがちょっぴり残念(笑)
でも、今は、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
みなさま、本当に、ほんとうに、どうもありがとうございました。









付録
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既にお目通しくださっている方々もいらっしゃると思いますが、

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身内に被爆者がおりながら、mixiの片隅で細々と父から聴いた話を書き綴ることしかできない自分を情けなく思いますが、一人でも多くの方にお目通しいただければ幸いです。


NO MORE ヒロシマ。NO MORE ナガサキ。〜原爆に関する日記集〜
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1759658276&owner_id=19426232

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というコーナーを設けております。
これも父の足跡になってしまいました。
原爆体験者が、また一人減ってしまいましたねぇ…

広島出身の父から聞いたエピソードや、私とのインタビュー形式での記録や、父自身が寄稿してくれたものが掲載されています。
ご興味のある方、よろしければ覗いていただけるとありがたき幸せにございます。






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