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2012年07月17日23:44

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映画【へルタースケルター】 〜残念ですっ!悔しいですっ!!(byザブングル)

http://hs-movie.com/index.html

何の因果か、公開初日に観に行ってきた、自称勇者こと超兄貴DEATH。

まあ、あれですよ。
長澤某が出てるから観ないという価値観同様に、沢尻エリカが出ているから観たってところです。
ぶっちゃけ、エリカ様が出てなかったら、鑑賞意欲は半分以下でしたが…



ほんとうに、エリカ様以外の見所に乏しい残念な出来でした。

言い方を変えるなら、沢尻エリカを抜きにして、この作品は成立しなかったでしょうが、それ以外は、作品世界に不可欠な存在とはいいがたいです。
むしろ、この作品を最もスポイルしたのは、蜷川監督自身ではないかとすら感じます。


以下、ちゃんとダメ出ししますので、本作が大好きな方は、どうぞ、無視してください。





【以下、決定的にネタバレしますので、御注意ください】





1_竜頭蛇尾(裸体デフレーション)

本作は、冒頭のオープニングシークエンスと、それに続く長尺のシーンが最大の見所です(いわゆる大人視線の意味で)。
そのことで、主演の沢尻エリカの評価は上がっても映画全体の構成的にはどうなんでしょうか。

オープニングシーンがもの凄いばっかりに、その後の展開にそれ以上を期待するのが観客の心理というものです。
しかし、本作は、そういう観客の真っ当な期待に応えるようにはなっていません。
煽るだけ煽っといて、梯子を外すような構成です。

確かに、エリカ様のボディは素晴らしいし、それなりにエロティックなシーンが満載なのですが、オープニングで延々と見せすぎたが為に、中盤以降の濡れ場との濃淡/演技の強弱の差が感じられず、『まともリリコの正常な愛欲』と『キチガイリリコの性倒錯』の違いが画面から伝わってきません。

台詞の上では相応に語られていても、やってる内容と、その画の見せ方のセンスが一緒なので、ちっともリリコの異常性が伝わってこないのです。

むしろ、オープニングでは、エリカ様のボディラインを強調するよう包帯越しのセックスアピールに留めたり(乳首ポチとか尻に食い込む包帯とかね…)、濡れ場も肝心なところの直前でカットして、音声と表情の細かな変化のみで、行為の様子を間接的に表現するなどして、『見えそうで見えない』『チラリズム』『焦らし戦法』を最大限に駆使し、中盤以降の爛熟モードに移行してから全裸体御開帳したほうが、リリコの性倒錯が暴走する様を的確に表現できたのではないでしょうか。

折角、作品舞台を渋谷一帯にしているのなら、渋谷道頓堀劇場の踊り娘さんの『究極のチラ見せ、観客煽りテク』を学んだ上で、その一万分の一くらいは実践していただきたかったところです。





2_画竜点睛(そこかしこにやっつけ仕事)

本作は、オープニングをピークに、オハナシの展開が進むにつれて中弛みが激しくなり、結局、そのまま終焉してしまいます。
特に、脚本のターニングポイントを握る検事(大森南朋)が登場してからは、グダグダの一途で、眼も当てられません。

このキャラクター、何とかならなかったんでしょうか。

原作での台詞回しを忠実になぞったのかもしれませんが、彼の立ち回りから漂ってくるのは、似非評論家の腐臭ではあっても、辣腕の検事のそれではありません。

彼のオフィスの造形も、いかにも、お金のかかっていないセットの雰囲気が漂っており、リリコとその周辺のディティールの描かれ方との差が露骨過ぎて、物語のリアリティを削ぐ一因になっています。

中でも、デスク上のPC本体が『iマック』なのにキーボードとマウスが『ヒューレットパッカード』というちぐはぐさには、思わず眼が点になりました。
おまけに、iマック本体背面のUSBポートも全部空いたままで、配線を一切繋いでいないのが画面に大写しになっている始末です。
(こういう小道具のヒドサは、SpaceBattleShipヤマトと同格という不名誉)

大森氏の抑揚の欠けた演技は、この、周辺スタッフの露骨な手抜きに対する彼なりのサボタージュだとしたら、凄いことですね。
鈴木杏がパンパンに膨れていたのも、同情して、ふてくされていたからでしょうか(毒)

おまけに、リリコの錯乱シーンも酷かったですね。

ブラックスワンのメンヘラ描写をそのままやれとはいいませんが、悪い意味で漫画的すぎました。
たとえ、原作がそのような描写になっていようとも、大事なのは、『リリコが何かをきっかけにして錯乱する様子を映画的に描く事』であって、原作の絵ヅラをトレースすることではないはずです。

リリコの見た目で、背景に目玉がギョロギョロ出現するシーンで、リリコは、周囲の人間の顔が、まともに見えていたんでしょうか。
メイドさんの眼ん玉が8つくらいに見えるとか、それこそ、蝶みたいな複眼でメイドさんが迫ってくるとか、ケーキの中から、蝶が大量に飛び出してくるとかしてこそ、リリコが、彼女達を突き飛ばすリアリティが生まれるというものでしょう。

濡れ場以外の造り込みが安易すぎて、観ていてシラけます。




3_モチーフ不在(監督の才能は物語を語るに至らず)

蜷川監督は、独特の色彩感覚が売りとのことですが、確かに、ポスターやWeb等の静止画で見る限り、画を一定の枠内に配置する才能は確かなのでしょう。

しかし、いざ、画が動いて、そこに音が付き、明確な時間経過やストーリーが付加されてくるに従い、この監督さんの力量の限界が露になってきます。
画を巧く描く人が面白い漫画を描くかというと、そうでない事は、誰もがすぐに理解できるでしょう。
どうも、蜷川さんは、物語を構築する能力が決定的に欠けているようです。

それは、この作品のキーとなるべき画ヅラ(テーマを明確に示すモチーフ)が、ちぐはぐになってしまったことからも伺えます。


作品のメインテーマは、作品中、大森氏が台詞で説明している『羽根を散らしながら生きる』という部分でしょう。
わざわざ、『周囲の欲望の為に、自らの犠牲を伴いながら輝き続ける人生』って、追加で説明してくれるなんて、なんてバカ丁寧なんでしょう。
(大事な部分を台詞で済ませてしまうというのは、映画的に最も幼稚な方法に思います)

なので、『羽根を散らす』という描写で締められたクライマックスは、一見、正しいように思えます。
しかし、実際に最後まで作品を眺めると、この、正しいはずのシーンだけが異様に唐突であり、作品全体から浮いてしまった印象を受けることになります。

この、もの凄い唐突感には相応の理由があります。

なぜなら、本作では、リリコが持つ散るべき羽根(美/素質/才能)を匂わせる画や、美しい羽根を広げているようなイメージが一切描かれてないからです。
あるいは、彼女の精神を蝕む何らかの原因によって、その羽根が傷つけられたり、彼女自身の自堕落によって羽根が抜け落ちていくといったイメージすらも描かれていません。

普通なら、夢オチ等を使って、その類いを伏線として仕込むはずですね。

代わりに出てくるのは、アゲハチョウであり、ポスターや公式サイトのビジュアルもこれがモチーフになっています。
しかし、このアゲハチョウは、物語の進行上、リリコ自身の持つ美や才能というより、リリコの才能を阻み、それを蝕む側のキービジュアルとして機能しています。
(リリコが、アゲハチョウの幻覚を振り払いつつ発狂していく事から伺える)

そして、ポスターや、作品の過程を観ると、『散っていくのはアゲハチョウの羽根』と予想できるにもかかわらず、クライマックスで出てくる羽根は、全く無関係のものになっているのです。

例えば、リリコが精神を病んでいく過程の中で、『自分が蝶だと思っていたら、本当は蛾で、沢山の蝶に囲まれて羽根をもがれる』悪夢を執拗に見てしまう… とか、『飛び交う蝶をアップで捉えるシーンで、その頭部が、後輩モデルの顔に見えてしまい』発狂の度合いが強まる… というような、猟奇すれすれの描写に踏み込んでこそ、クライマックスにおける『羽が飛び散る』具体的な描写に繋がるのではないでしょうか。

(もちろん、この場合、クライマックスで飛び散るのは、あんな募金臭漂う羽飾りではなく、禍々しい蛾の羽根模様や、鱗粉の類であるのが適切ですが)

もとより、羽根云々は、検事のわざとらしいトーンのまどろっこしい台詞の中でのみ語られているだけなのです。
ゆえに、観ている側にすると『突然、クライマックスにブラックスワンのまがい物』が現れたように感じることになります。

画を切り取ることを生業としながら、画で語ることを放棄しているようにしか見えないのは、そもそも、監督自身の物語を語る能力が欠如しているからとしか思えません。







というわけで、エリカ様の復活を見届ける事に意義を見出す熱烈なファンは劇場へGo!
それ以外の方々は、DVDでどうぞ。

ちなみに、エリカ様の美しいお口から、放送禁止の4文字が発せられるので、決して、地上波には乗らないでしょうww




おまけ)こっちを観た方がお得だぞ♪

A 変態/性倒錯モノなら 『私の、生きる肌』

B メンヘラ/芸術への殉教なら 『ブラックスワン』

C 全身整形の顛末なら 『カンナさん、大成功です』(韓国版)
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