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2012年05月15日09:56

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市民感覚の量刑と裁判員の重圧

裁判員裁判 性犯罪の量刑重め
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2015464&media_id=4

そもそも裁判員制度が導入されたのは、プロが裁く法廷の場に、市民感覚を取り入れよう、という試みだったはずだ。

であるから、従来のプロのみの裁判と裁判員裁判とでは、違った量刑になるのは、予め想定されたことで、もし、量刑に変わりがないなら、わざわざ、一般市民を巻き込んで裁判をする必要はなくなる。

つまり、性犯罪や傷害致死、強盗致死について、一般市民は従来の量刑に疑問を持っており、厳罰化を望んでいたのだ。

まあ、これは裁判員制度で裁判をする以上、仕方がないだろう。
僕ら、一般市民の感覚としては、こういった重犯罪に対しては、よっぽど加害者側に情状酌量の余地がない限り、被害者側の心情に配慮する傾向になりがちで、そうなると、量刑は厳罰化の方向になる。

これは、個人的に裁判の量刑が市民感覚の量刑に近づいたという意味では、良かったのではないか、と思っている。

だが、僕は、裁判員制度には反対だ。
それは、法廷の場で、被告の一生を左右するような判断を一般市民に強いて良いものか、と疑問に思うからだ。
特に、死刑という人の生死に関わる判断を下すことは、裁判員の方にとって、大変な重圧だろう。
僕らは、そこまで日常生活に負担を強いられなければならないのか。

これは、法廷の外で、判決に対して一般市民が厳罰を叫んだり、不満を言うのとは訳が違う。
判決によっては、裁判員の方は、一生自分の生活の中で、自分の判断を自問自答し、悩む人だっているはずだ。

実は、僕は去年一年間、裁判員にリストアップされていた。
幸い、法廷の場に呼びだれることはなかったが、その通知が届いた時には、自分に妥当な量刑の判断を下すことができるのか、本当に考えたものだった。

この裁判員制度、量刑の妥当性もそうだが、裁判員制度そのもの是非も、個人的にはもっと議論されてもいいような気がする。
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