mixiユーザー(id:1512719)

2011年01月25日10:15

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生息域。

魚は同じ海の中で暮らして居るのに、種類によって全く他の生き物とは関係なく暮らしているようだ。泳ぐ速度、食べ物、その違いは、肌が触れあう程のご近所さんで暮らして居ても全く存在していないと同じ場合だってあるようだ。

それぞれの生息域があり、同じ空間でありながら、全く違う次元で暮らして居ると言える。



人間の場合は同じ空間で生きている限り、同じ生息域で暮らして居ると言えるだろうが、思想や生き様となるとこれが、異なる生息域で暮らして居るという事があり得る。

同じ空間に居ながら、全くの違う世界で生きているという事だ。
これは自分からバリアを張るような都会的思想の人間の事を指している訳ではない。

混じり合えない思想同志の人間関係を指しているのだ。



同じ電車の中で同じ人間でありながら、関わりを持ちたくもない偶然乗り合わせただけの人間。
これらは十分に同じ生息域である可能性は高いが自らがバリアを張り、同じ人間同士である事すら拒否しているようなケースだってあると思う。

あえて作り上げた生息域とでも言うべきだろうか。

そのどちらであっても別に構わないのであるが、その生息域の違いを相手に押しつけるのではなく、その違いを理解し、自分達の生息域だけを見ずに、全体の世界の中で自分達の生息域の位置付け、そしてその意味を考える必要があるかどうかが問題となる。



通常、魚同志は、関係ない生息域の魚が何をしようがあまり関係がない。
だが、迷惑がかかるような状態になれば、そこには変化が生まれる。

自分の位置付けというのは、それらの全体の流れ、そして自分らのグループの流れ、そしてその中での自分の動きを把握する上で非常に重要な事だ。



違いの把握というのは非常に難しい。
なぜなら人間は自分と違う人間に嫌悪感を抱き、排除してしまいたいと思う動物だからだ。

違いを感じる人間に対して、相手が権力的に上であれば逃げる傾向にある。
権力的に下ならば、イジめる傾向にある。
同等、若しくは、上であるがそれを認めたくない場合には、無視する傾向にある。

なぜ、相手の違いを理解しようとしないのだろうか?
必要がない事だからか?面倒臭いからか?

違う生息域に生きる人間にこそ、自分が勉強すべき自分に一番足りない所がある。
人間の持つ、嫌悪感、怒り、悲しみ、を卓越してこそ、その域に達する事ができると思う。


簡単に怒る人間、簡単に悲しくなってしまう人間には、森羅万象の法則の中に自分という人間が存在する事を理解できない。

自分という人間は特別ではなく、無数に存在する中の1個体であり、その集合体である現世の中で、自分というマインドしか自分は意識できないという事を世界中の人間が理解できれば、下らない喧嘩や戦争はなくなると思う。



自分という人間の生息域の把握、他の人間の生息域の把握、それらの関係性。
これは小学生から高校生くらいの間に訓練して学習すべき事だと思う。

これらを学問として教えないのは何故だろうか?
国家としての明確な宗教が存在しない日本において、これらを教育するのは必須条件だと思うが。

”みんな仲良く”とか、”みんなと同じようにしましょうね!”という教育が現状の悲劇を作ったと気がつかない人が多いのは何故だろうか。

脳を使う事が、そんなに苦痛なのだろうか?



私の生息域に生きる人も多いと思う。
そうでない人も多いと思う。

それに何の問題もないが、それをどうでもいいと思っている人がいたら、その人こそが世界を滅ぼす原因の思想を持った人間なのかも知れないと思う。

だが、そうする為に生まれて来た人間が存在し、人間はそういう方向に進んでいて、それを阻止する思想の一部の人間が存在するというのも、自然の法則として成り立っているとも思う。



うまくは言えないけど、なんか、そう考えるのも面白い。

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