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2011年01月13日00:05

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映画【最後の忠臣蔵】 忠義に偽装したホモソーシャルの一途さ加減

1月10日に観てきました。
昨年の12月から、観賞済み作品の日記がたまってるのですが、ちょっと、こちらを優先します。

別に、ホモネタだからというわけではないですが、この作品が、非常に上手にいろんな(妖しげな)ニュアンスを感じさせつつも、万人向けの印象に仕上げてあるので、どうしても、その辺りを言及したくなったのです。

なお、作品のオチとその解釈に触れていますので、これからご覧になる方は、なるべくスルーして下さい。


http://wwws.warnerbros.co.jp/chushingura/main.html



この作品を観て、最も一般的な感想として出てくるのは、武士が忠義を全うする事への賛美だと思われます。
この部分については、かなり感傷的な描写を含めて、判りやすく提示されているので、流して観る分には、大抵の観客の感想がこの範疇に落ち着くと思います。

しかし、この判りやすさというのがかなり胡散臭い代物で、見ようによっては、かなりわざとらしい提示のされ方をしていると思えます。

それが最も顕著になるのが、浅野家家臣(柴俊夫)が、かつて、孫左(役所広司)を足蹴にしたことの非礼を詫びるシーンです。
これは、一見、丁寧な謝罪のシーンにも見えますが、彼の台詞回しを丹念に追うと、もの凄く不自然極まりありません。
彼は、わざわざ、過去に自分が孫左に何をしたのか、周囲に喧伝するかのように台詞で説明しているのです。
2人は、互いにその事件の当事者同士なのですから、彼はシンプルに『事情を知らぬ事とはいえ、その節は、無礼を働き申し訳なかった。』と謝罪すれば済むはずなのです。

ですので、ここの台詞まわしは、むしろ、観客に対して孫左の突出した忠臣ぶりを再確認させる為に解説を加えているとしか思えません。
もちろん、【孫左=忠臣の鑑】と解釈できる方が、作品としての一般受けは良くなるはずですし、こういう台詞で補完する演出は、TVドラマ等の展開ではよく見られる手法ですが、どうも、映画的読解力の低い観客向けにトラップを仕掛けているようにも思えます。


映画を見慣れていて、画的に語る手法に慣れた観客の中には、可音(桜庭ななみ)に対する、孫左のマゾヒズムや忠義へのストイックさを感じる方もいるやもしれません。
確かに、年下の小娘から上から目線で命令されたりというような描写は、そのような感覚を覚えるのが普通ですし、ワタクシ自身も、そのような雰囲気を存分に感じ取りました。

しかし、この作品を最後まで見届けて到った結論は、孫左の抱える、亡き主君/大石内蔵助(片岡仁左衛門)への一方的な恋慕であり、強烈なホモソーシャルの薫りでした。
そして、その描写は、本当に気づく者だけが気づくよう、騙し画や残り香のように手の込んだ描写で仕込まれているのです。



(注意:この先、決定的にネタバレします)











孫左は、可音の祝言を最後まで見届ける事なく切腹しますが、その際の佇まいと行動様式に、彼の本音が凝縮されています。

1_大石から授かった上下を身に着けていた

2_部屋にむしろを敷き詰めていた

3_寺坂(佐藤浩市)の介錯を断わって自刃した



孫左が忠義を通すがために可音の愛情を蹴ったというような、情欲への未練があったなら、彼女から貰った着物を着用してもよいでしょう。
しかし、彼は、そのかわりに亡き主君の上下を身に着けて事に望んでいます。

孫左の切腹が、武士道としての忠節を貫く為であったならば、なにも寺坂の介錯の申し出を断わる必要はありませんし、上下も自ら着る必要はなく、仏前に畳んで供えればよい事です。
また、わざわざ、自宅の畳の上にむしろを敷く論理的な理由もみつかりません。

しかし、これを武士道の筋を通したのではなく、孫左が、大石との精神的な一体化を願った末の一連の儀式であったと仮定すると、全ての行動様式の説明がつくのです。

むしろを敷いたのは、大石が、16年前に罪人として処断された際の刑場を模したものでしょうし、だからこそ、孫左が大石の上下を着用する意味も深まります。

何より、一連の儀式の最後に寺坂に介錯されることは、孫左が人知れず育んだ秘めた想いが武士道という既存の価値観の枠に陥る事を示しますし、それは、主君との一体化の行程/様式/精神性を台無しにしてしまうに違いありません。

孫左は、大石を後追い心中したかったのであり、だからこそ、我が身を賭したゆう(安田成美)の申し出すらをも断わったのです。
ゆうは、『16年待った』と告げましたが、孫左こそ『(死ぬのを)16年待っていた』といえるでしょう。

なお、孫左の同性愛性向に比べて、肝心の大石といえば、正妻との間以外にさえも子を設け、しかも、その隠し子を育てる為に莫大な財産を残している、ばりばりの【ノンケ】です。
(大石は、寺坂を通して四十七士の遺族に大判を1枚づつ配らせたのに対して、孫左に可音の将来に備えた大判数十枚分の包みを預けている事が伺える)

そう考えると、どのみち孫左の恋は永遠の片思いだったわけで、やはり、あの世でしか結ばれないというところが、ちゃんとラストの人形浄瑠璃の顛末と被っているのですね。


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