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2010年07月15日01:45

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映画【トイストーリー3】考

コンピュータグラフィックスを全面に押し出した作品を次々と
ヒットさせてきたPIXER社の代表作【トイストーリー】の最新
作にして、本家アメリカでも大ヒット中の映画を観て参りまし
た。

今回は、家族で吹替え版を観賞してきたのですが、あまりに素
晴らし過ぎて、字幕版を観に行く前に、取り急ぎ、感想を書き
たくなってしまったのです。

悩んでいらっしゃる方は、躊躇せずにご覧頂きたいと思います。
特に、前作までのシリーズを観ていなくても、ちゃんと理解で
きる造り込みは、賞賛に値します。

さて、作品を観て、私が感じたことを表現する上で、劇中の、
詳細な描写に触れねばなりません。
ネタバレを嫌う方は、この先を読まないで下さい。


* この先に、公開中の映画【トイストーリー3】のネタバレ
  記事が含まれます。
  ご注意いただくと共に、ネタバレを嫌うお方は、この先を
  読み進まないよう、お願いいたします。

  今回、シリーズ全体を通して、その背景描写について具体
  的に言及しています。
  これから、本作をご覧になる方、特に本シリーズを未見の
  方は、この先を読まないで下さい。



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1_シリーズ対比でみえる基本骨格

数ある映画シリーズの中で、1よりも2が面白いという作品は、
幾らでも思いつくのに対して、3作続いて面白く、しかも3が
最も面白いというパターンに遭遇するのは、非常に珍しいこと
のように感じます。
中には、3部作とうたいながら、実質的に2が、単なる3への
ワンポイントリリーフ、もっと露骨には、有料の予告編のよう
なシリーズすらある昨今のマーケット主体の興行においては、
トイストーリーシリーズの作品作りにおける姿勢や、尻上りに
加速するクオリティが、貴重であり、少数派であることは否定
できないでしょう。

しかし、細部を注意深く観ていくと、今回の『3』は、特に新
機軸を打ち出したのではなく、『1』と『2』で培った展開に
磨きをかけて完成度を高めてきたということが判るのです。

『1』では、おもちゃを手荒に扱う悪童/シドの家からの脱出
劇が最大の見せ場となっています。
次に、『2』の鍵を握るのは、愛する主人に捨てられた薄幸の
カウガール/ジェシーのエピソードでした。
また、シリーズ2作に共通するフレームは、『子供部屋から出
たオモチャ達が、紆余曲折と冒険の末に子供部屋に帰還する』
というプロットに他なりません。
そして、これが重要なポイントですが、オモチャとアンディの
関係が、人間の親子関係の暗喩として描かれていることだろう
と思うのです。

こういった部分を押さえると、実は、今回のお話の基本骨格は、
見事なほどに1と2を足しあわせたものである一方で、その構
図の単純さを感じさせないのは、ひとえに脚本や展開上の練り
込みの巧さであることが見えてきます。



2_細部の練り込みにみる脚本の妙

バズ達は、保育園/陽だまり園に寄付されますが、そこは、天
国のように見えて、おもちゃを手荒に扱うガキンチョどもの巣
窟であることが示されます。
この図式は、基本的には、『1』のシドの家の構図と変わりあ
りません。
しかし、本作が秀逸なのは、この手荒なマネばかりするガキン
チョたちは、シドのようにあからさまな悪意でそうしているの
ではなく、成長過程で、まだ、オモチャの正しい扱い方を理解
していないという描写に徹したことでしょう。
(実際、我が息子も、幼少時には、チョロQのタイヤを軒並み
 食いちぎって、全く走れない置物の類にしてしまったもので
 す…orz)

具体的には、クラスの名前に『ちょうちょ』/『いもむし』と
いう、コドモの成長を感じさせるネーミングを施すことで、幼
児達の年齢区分を匂わせる描写を行い、さらには、バズ達が、
人間の『成長/加齢』を理解しているという部分です。

これは、冒頭部のシークエンスが震えてしまうくらいに素晴ら
し過ぎるのですが、西部劇風で始まるオープニングシーンが、
要するにアンディの脳内妄想の画でありながら、それが、既に
遠い過去のものであり、家族のホームムービーの中にある思い
出の中でしか観られなくなっているというのです。
この時点で、既に、バズ達は、前作までの展開で苦楽を共にし
た仲間達の大半を故障やフリーマーケット等で失ってしまって
います。
そして、自分たちも、いずれ見向きもされなくなると薄々感づ
きながらも、それが、執行猶予の状況であることを理解してい
るのです。

この冒頭部は、シリーズを観てきた観客にはもちろんのこと、
本作で初めてこの物語に接する観客にさえも、オモチャたちが
直面する『別れ』の問題を強烈に印象付けることに成功してい
ます。


また、『2』でも描かれた『主人に捨てられる不幸』について
は、冒頭部で、アンディの妹/モリーが、あっさりとバービー
人形を手放す場面に注目すべきでしょう。
前作で、カウガール/ジェシーは、思春期を迎えてお人形遊び
に飽きた持ち主に捨てられているのですが、今回は、モリーが、
その持ち主の立ち場にいるという絶妙な設定が利いてきます。
特に、バービーと一緒にビニール袋に入れられたアイテムにも
注目頂きたいのですが、あれは、『1』で、アンディの部屋に
あった『占いボール』なのです。
おそらく、モリーが、夢見る小さな乙女でいた時期にアンディ
にせがんで譲り受けたのでしょうが、彼女も思春期を迎えて、
現実世界の辛辣さに目覚めてしまった結果、迷信めいたアイテ
ムをあっさりと手放したであろうことが伺い知れる描写です。

一見、『2』でクローズアップされたように見えるこの問題も、
実は、主人からの寵愛を失うという意味では、既に『1』の時
点から、周到な描写がありました。
『1』で描かれた、『バズの登場で、お気に入りの座を奪われ
るウッディ』というプロットの帰結は、2体のオモチャが、ア
ンディの寵愛をシェアしあう(というよりも、どのように愛さ
れるかはアンディの決めることなのだ、と納得する)という、
かなり、大人びた選択をする方向で着地します。
しかし、有能なスタッフは、この着地点にささやかな地雷を仕
込んでいました。

新しく一家に加わった『子犬』です。

この新参者の登場は、ウッディ&バズが仲良く分け合って受け
ようとしたアンディの寵愛が、全くの別のジャンルから現れた
ライバルによって一気に奪われてしまう可能性を示していまし
た。
それ故、2体は、互いに見合って苦笑いしたわけです。
『やれやれ、未来は安泰ではないね…』と、言わんばかりに。


このような秀逸な描写が伏線となり、観客は、オモチャたちに
降りかかる災厄が一方的に襲いくる災害や天変地異の類ではな
く、人間という気まぐれな存在に運命を握られ、翻弄され、コ
コロ乱されるというプロットに、感情移入していくことになり
ます。
そして、この作品の持つ構図は、意中の相手を前にしながらも
その想いがなかなか伝わらず、相思相愛になれないばかりか、
様々な要因によってどんどんと相手との距離が広がっていくよ
うな状況、『片思いの恋』のアレンジバージョンでもあるので
す。



3_WALL―Eとの比較で見えるもの

今作品の悪役の立場を丁寧に観察すると、意外なようですが、
WALL―Eとの共通項が多いことに気づくことになるでしょ
う。

日だまり園にやってきたバズ達は、悪役の策略によって、手荒
なマネばかりするコドモ達の相手役に任命されるわけですが、
これは、現実の格差社会の縮図に他ならないことが判ります。

試しに、バズ達の姿をアメリカンドリームを夢見ながら入国し
た貧しい移民たちに重ねてみると、彼らが、まともな職に就け
ないままに極貧の底辺を這いずりまわる図式が、このお話での
バズ達の境遇にぴたりと一致します。
そして、何よりも、先輩のおもちゃたちが、既得権を盾によそ
者(バズ達)を排斥することで、自身達の地位の安定化を図ろ
うとするところまで、現実の格差社会の抱える問題点が上手に
取り入れられていることが判るでしょう。

陽だまり園で子供たちとの蜜月を謳歌する先輩おもちゃたちの
姿は、WALL―Eで描かれた、アクシオムで永遠のモラトリ
アムに浸り続ける未来人の姿にも重なります。
どちらも、自身が生きていく上で発生する煩わしい問題や汚ら
しい現実の尻拭いの行程を一方的に弱者に押し付けることで、
自分たちの安穏とした既得権を守り続けているという図式に、
いささかの違いも見られません。
押し付ける先が、新入りのおもちゃか、感情のないロボットで
あるかの違いでしかないのです。


陽だまり園を抜け出したバズ達が最後に向かった舞台がゴミ処
理場というのは、このお話の当然の帰結かもしれません。

WALL―Eでは、人間が『文明的に』生活するうえでの煩わ
しさの一切合財をロボットに押し付けることで、遂には、地球
全体がゴミだらけになってしまったという、皮肉に満ち溢れた
設定が成されていました。
それを強力に推進したのは巨大企業BNLであり、経済至上・
効率至上主義の行き過ぎた結果として荒廃した地球環境の描か
れ方は、大量生産/大量消費/使い捨て/買い替えといった過
度の浪費が支え続けている、現代の市場原理至上主義そのもの
への言及をも行っています。

そして、物語の性格上、明言を避けられていましたが、アクシ
オムに乗る事ができたのは、決して、人類全体ではなくて、そ
のうちのごく一部でしかなかっただろうと思える点を考慮すれ
ば、WALL―Eの世界とは、一部の富裕層を除いた人類が、
地上で絶滅してしまった後の世界、格差社会が行き着き過ぎて、
地上文明を滅ぼしてしまった後の世界であったであろうことが
伺えます。

本作では、一見して、そこまで辛辣な描写はないように見えま
すが、悪役が負の感情を背負うに至ったエピソードをみれば、
『旧い自分の立ち位置が、新しい代替品に奪われる』という件
が、『どれでも良い存在』/『大量生産〜使い捨てに支えられ
た世界』を代弁していることに気づくでしょう。
格差の底辺で、健気に自身の立場を貫いたのがWALL―Eで
あり、格差の存在に気づいて、自分の下に新たに格差を築いた
のが、今回の悪役という事になります。
(弱い者が、より弱い者を叩くという、格差の暗黒面を提示し
 ているとも言えますね)


対して、バズ達は、『主人を失ったおもちゃは単なるゴミ』、
『捨てられて、新品に取って代わられる存在』という辛辣な命
題を突きつけられながらも、主人の成長の行く末を最後まで見
守るという道を選択します。
そこに息づくのは、どれでも一緒ではない、個別の『特別なも
の』への思い入れであり、数字の上には表れてこない個々人の
抱える事情に対する配慮への言及をみることができます。

ラストにおいて、アンディは、彼らの想いにに応えるかのよう
に、自身の目利きを通して、彼らの新しい主人への幸福な橋渡
しを行うことになります。

そして、さらに素晴らしいことに、この作品のエンディングで
は、『真の意味でのフェア/ハッピーとアンハッピーが偏在し
ない世界』を示す描写が出現します。
悪役が放逐された陽だまり園では、特定の誰かに手荒な子供た
ちの相手を押し付けることをやめ、全てのオモチャが、均等な
機会で、あらゆる子供たちに同列に接していく様子が描かれる
のです。

この一連の展開には、現代に蔓延しきった『使い捨て文化』や
『固定化された格差』に対する、明確な反論を感じることがで
きるでしょう。


このように観ていくと、トイストーリー3とWALL―Eは、
同じ事を異なるタッチで描いた、コインの両面のような関係に
あることが判ります。
WALL―Eに対しては、そのシニカルすぎるラストへの批判
(エンディングの後に発生するBNLロゴの件)もあったよう
に思いますが、今回、ピクサーは、改めて、同じ内容を極めて
教育的なスタンスで観客にぶつけてきているように思えるので
す。




4_オトナのココロを揺さぶる仕掛け

マーケット的な面に着目すれば、結局、コドモを劇場に連れて
くるのはオトナなわけで、コドモだけが観たがる作品では、片
親が昼寝がてらに来場するだけでしょう。
対して、オトナも観たがる作品では、コドモの事情にかこつけ
て両親共に来場したり、コドモがいない夫婦やカップルやおひ
とり様までもが、こぞって、劇場に足を運ぶことになります。

『コドモは笑い、オトナは泣く』、この不文律こそが、大ヒッ
トする家族ムービーの法則であるといっても過言ではありませ
ん。
ピクサームービーの数々や、往年のディズニークラシックや、
あるいは、PTAが眼の敵にしている『クレしん映画』は、程
度の差こそあれ、この黄金法則に則っています。

この作品は、あくまでもオモチャの物語を装っていますが、お
よそ描かれる世界観は、リアルな親子関係や人間関係での問題
点や葛藤を投影した内容になっています。

加齢する人間と、常に幼いままで居るオモチャの間では、必然
的に別れがやってくるわけですが、そもそも、これが、単なる
マンガの世界の出来事であるなら、サザエさんやドラえもんの
ように『延々と人生の一定時期のエピソードを積み重ねる』だ
けのシリーズにすることも出来たはずです。
しかし、このシリーズでは、既に『2』の段階で、大人になっ
た持ち主から飽きられる必然をカウガール/ジェシーの過去と
して挿入することで、明確にリアルな時間の流れを意識した展
開に舵をきっていました。
ですから、シリーズが終るまでの間にいくつかのエピソードを
挟む余地こそあれ、ウッディ&バズは、最終的にアンディと別
れる存在として用意されていたといえるでしょう。

ところで、オモチャの役割とは何なのかを考えたときに、この
作品にオトナが涙する意味がうっすらと見えてくるのではない
でしょうか。
オモチャを欲しがるのは子供ですが、それを与えるのは、親で
あり、祖父母であり、近親の大人たちです。
そして、その大人達は、自身の何%かの分身であるコドモ達の
健やかな成長を見守るにあたり、時間的/経済的な制約から解
放されてさえいれば、ずっとつきっきりで彼らの側にいたいと、
心から願っているものです。

しかし、全く働かずに延々と子供の一部始終を見ていられる大
人は、そう、多くはいません。
パパは働きママは家事、という分業が当たり前であった時代は
ともかく、共働きが常態化しつつある現代において、コドモは
オトナが意識していない間に、『あっという間に』大きくなっ
てしまっているものです。

オトナがオモチャを買い与えるというのは、子供のそばに居て
やれない大人自身の代償行為であり、オモチャを買い与えた大
人が、時折、子供とコミュニケーションを図るきっかけの為で
あったりするものです。
遠くの田舎にいる祖父母が、時折、贅沢なくらいに豪華なオモ
チャを買い与えようとするのも、そのコドモとの関係を維持し
ておきたいという心理があるからこそです。
実際、コドモと密接に繋がっていたいのは、オトナの側なので
あり、当のコドモは、どちらかというとさっさと自分が大人に
なって、既存の家庭の枠組みから脱出したいと願うものです。

ウッディ&バズは、ずっとアンディと遊びたいと願いながら、
それが、叶わない事を悟ります。
そして、現実社会の大抵の大人は、子供が大きくなってしまっ
た後になって、あのとき、上司の誘いを断わって早く帰ってさ
えいれば、とか、急な仕事のせいで休日出勤しなくちゃいけな
くなって、とか、『コドモともっと遊んであげたかった』と、
悔やむのです。

この作品は、『コドモと遊びたいのは、オトナの側なのだ』と、
オモチャの視点を通して、言及しているのです。

ウッディ&バズは、『オモチャの形をした親心』『いつまでも
コドモのそばに居て見守りたいと願う我が儘』『側にいたかっ
たときにいてあげられなかった未練』の投影に他なりません。
だからこそ、この作品を観るオトナは、ママがアンディを抱き
しめたあたりから、津波のように襲い来る、感傷の波状攻撃に
耐え切れなくなるのです。

そして、幸せな妄想とともに大粒の涙を流すのです。

『この子が大人になったときに、その子のコドモたちと一緒に
 この作品を観て笑い、一緒に泣きたい』と。
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