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2010年06月03日07:46

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「ケンカの仕方をしらない」という論

殴られた高校生死亡 少年逮捕
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1228535&media_id=2

「知育偏重」「外で遊ばない」「過保護」・・・といった学校教育・家庭での躾批判の類型そのものは、自分が子供の頃からあったとは思うが、「ケンカの仕方を知らない」「手加減の方法がわからないから死ぬまでやってしまう」といった考察は、比較的最近(90年代)からよくいわれるようになった気がする。

 「事件」と「それにはいたらなかったケンカやいざこざ」とを比較できないということを考えてもらいたい。
 「手加減のおかげでおおごとになっていない」件の方がはるかに多いのではないか。
「この事件」をもって「最近〜が多い」「〜な時代になった」「だから〜は」というのは、「特殊から一般におよぼす誤り」というパターンに合致するのではないか。
 
 また、「他者の痛みを知ればこういうことはできないはず」という論だが、甚だ疑問だ。
 そんなことをいったら、勝負事一般が成立しないではないか。
「将棋に負けたら相手がくやしがるとはおもっていなかった」とか「殴ったら痛いとはしらなかった」ということがあるだろうか。 
 「教育効果」への盲目的信頼、「私はそうだから他人もそうだろう」という素朴な実感主義がみてとれるのだが、「痛がらない、嫌がらない、こちらがどんなに力を行使しても変化しない他者」がいたとして、「そんな相手を殴る」ことに意味をみいだす者がいるだろうか。
 むしろ「怖がる・嫌がる・痛がる」からこそ力を行使すると考えた方が自然ではないのだろうか。
 そして、これは「自分も同じことをされたらイヤだ」ということが了解されているということ、すなわち「痛みがわかっているから」こそできることだといってもよいのではないか。
 
 それと、「死ぬとはおもっていなかった」のは事実だろうが、「これくらいなら死ぬ」と「わかった」のは「実際に死んだから」であって、「そんなこともわからないのか」と事後的に詰るのは公平性に欠けると思う。

「相手は殴られたら痛い。だが、それがなぜ自分が殴ってはいけない理由になるのか?」
そう問われたとき、有効な反論がありうるのだろうか。
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