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2010年05月09日20:36

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涙の新大久保




あはは〜、なんか演歌のタイトルのようだなウッシッシあせあせ(飛び散る汗)

これ、ほんとは随分前に書いて非公開にしてたんですけど、
公開することにしました。

深い意味はないです。

ほんとは深いです。

なんじゃそりゃ。

酔っ払ってなんかいませんよ(笑)




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つらつらと、思いつくに任せて書き連ねます。
とりとめもまとまりもない文脈になりそうです。
そしてとっても長くなりそうです。
そいでもって、
舞台の世界をご存じない方にはあまり面白い話ではないかもしれません
(舞台の世界の人でもうんと若い方にはわからない箇所もあるかもしれません)。

ごめんなさいあせあせ(飛び散る汗)



今日は仕事で新大久保に行って参りました。

新大久保は久しぶりですが、
私にとっては20年近くに渡って稽古に通うのに恒例だった場所です。

一昨年の暮れに日記に書いた演出家の舞台の稽古は
ほとんどがここで行われていました。


一昨年の暮れの日記「一周忌」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1025577690&owner_id=19426232


卒業した演劇大学以上に私の演技のメソッドの礎として、
深く私に影響を残して下さった人。

お一人身だった彼が
大晦日にご自宅で亡くなられているのが発見されてからの
あの時間の帯の記憶は、
あんなにバタバタと奔走したにもかかわらず
今だに現実味を帯びずに
まるで水槽越しに景色を眺めているような感覚で甦ります。

いろいろな事情により
九州のご遺族の元には私がご遺骨をお連れすることになり、
葬儀や諸々の後皆さんに託されて別れた帰り道、
品川の駅の明かりの届かないホームの一番隅で、
骨壷を抱いて嗚咽を漏らしたのを思い出します。


龍馬研究家で有名なあの宮地佐一郎さんに
『牟礼の龍馬』
と、いわしめた人(彼は牟礼に住んでいた)。

そういえば私がまだまだうんと可愛らしいお年頃に
お龍の役を演らせて頂いたなぁ(笑)

それまでにも舞台は何本も踏んできてたのに、

「初めて俳優として第一歩を踏み出せた、」と、

「今日のこの感覚を忘れまい、」と、

ヒリヒリした心を抱きしめて、
本番間近の稽古の帰り道、
身じろぎもせずに電車に揺られていたのを思い出します。



師匠に付いたらその人一筋についてゆくのがマナー(?)の時代に、
あの島田正吾氏、辰巳柳太郎氏、望月優子氏、伊藤雄之助氏らの師事を仰ぎ、

「節操のない!」

との、周囲の顰蹙の声も意に介さずに全ての師匠から可愛がられ、

「変わった奴」

と、言われつつも結局誰からも愛され、
関わった全ての人が必ず影響を受けてしまう、そんな人でした。

そういえば、私の同期生が彼のことを知っていたので
「会ったことあるの?」
と、尋ねたら

「いや、会ったことはないけど、
 日本で唯一、あの島田大先生にダメ出しできる人だって有名だよ」

と(笑)。

島田先生ほどの大人物になると
畏れ多くて誰も褒め言葉しか言わないのに、
彼だけは楽屋に入るなり素直に率直に感想を述べていたとか。

彼の目は、言葉は、
いつでも核心のど真ん中をついてくる。

島田先生も彼の言葉には耳を傾け、
自ら評価を求めらることもあったそうな。


「芝居が終わってから先生が楽屋で
 化粧を落としてゆくところを見るのが好きなんですよ。
 “役”を落として“島田正吾の素顔”が現れくる様子が色っぽくてね〜!」


とは生前の彼の言葉。

ところがある時、その日はなんの文句もなく
いつものように先生が仮面を落としてゆくのをただじっくり黙って
先生の背後から鏡越しに見つめていると、
長い沈黙を破って島田先生が一言、


「漠、俺を脅すのか。」


と。


「『へ?』って、感じで(笑)
 僕はただ“先生の顔”が現れるのを眺めていただけなのに。
 でも、後で気づいたんですよ。
 先生ご自身に反省点があったことに。
 先生は僕がそれを見抜いて敢えて押し黙って
 プレッシャーをかけてると思ったんですね。
 僕は何も考えてなんかいなかったのに(笑)」


こんなこと書くと、
さぞや凄みのあるエラソーな恐い人だと思われるかも知れませんが、
全然違います手(パー)
六十過ぎて尚、本当に赤ちゃんみたいに素直で開けっ広げで、
『天衣無縫』という言葉がピッタリな人でした。

声が大きくてね〜
100メートル先にいてもわかるほど(笑)
一緒に電車に乗るのは恥ずかしかったけど(笑)
よく響く素晴らしくいい声の持ち主でした。


新国劇ご出身のくせに

「型に嵌まった芝居は嫌だ」

と、劇団を飛び出し、ナチュラルな演技を演る芝居を作り続け
(劇団のロゴは立ち上げメンバーの奥田瑛二さんのデザインしたものでした)、
それでも先生方の元になつっこく出入りし、
また、受け入れられていた人。

島田先生が亡くなられた時、
緒形拳さん(彼も新国劇出身)を始め、各方面から追悼公演の申し出があったのを
先生のご家族は全てお断りしたのに、彼にだけは許したそうです。

「大きくやるな、
 されど決して小さくもしないでほしい」

と、いう条件つきで。


演目は島田先生のはまり役だった『瞼の母』。

型に嵌めずに、それでも古典に求められる形式美を自然な形できちんと押さえ、

『人の温もりを舞台に』

のテーマをしっかり客席に届けた舞台だったと、
出演していた私が言うのもなんですが、思います。

蓋を開けるまでは正直、
こんな古典芝居で現代のお客様からどんな反応を頂けるのか
私には予想ができませんでした。

が、

十代〜二十代の若い方々が涙を流して下さったのに驚きました。

また、長年『瞼の母』フリークでいらっしゃるお歳を召したお客様からは

「寝るのが当たり前の水熊屋の場面で
 あんなに身を乗り出したのは初めてです」

と(笑)、嬉しいアンケートも頂きました。

“人の真実”に時代は関係ないことを実感しました。



役者の嘘や妥協を、どんなに巧みに胡麻化しても鋭く見抜く人なので、
彼の所以外の公演に自信を持って彼を招くまでには時間が掛かりました(苦笑)
遅くとも三十路に入るまでには彼を呼べるようになりたい、
彼の演出の元でなら彼によって引き出して貰えてる力を、
彼の助けがなくても出せるようになりたい、
と、目標にしていました。

だから、初めて彼をご案内した芝居で褒めて頂いた時には
嬉しくてたまらなかった!
絶対、お世辞は言わない人ですから。

そしてとうとう三十路終わりを前にして、テアトロ(昔からある演劇雑誌)になんと、

『上の平多香の名演技』

と、題して寄稿していただけた時は、本当に、ほんとうに、嬉しかった!!


…ただですね〜、
投稿前に原稿を見せてくださると仰るので目を通してみると、


「やさしい女性として夫を思う、息子を思う、故郷(大連)を思う、
 素顔の彼女からはまるで想像のできない儚げな姿。
 余命幾ばくもない切なさ、遣る瀬なさ、辛さが
 ひしひしと心の中に伝わってくる…」


と、いった箇所がある。


「するってーとなんですか?
 素顔の私は女性らしさの欠片もなく、不埒な妻&母で、
 ジャングルで迷子になっても生き抜けてゆけちゃうような
 浅ましいほどに生命力逞しい奴、ってことですか???」


と、突っ込んだら、


「あははは〜!そっか〜!
 じゃ、ま、ちょっとだけ書き直しますよ。
 発刊を楽しみにしていてくださいね〜(笑)」


と、仰ってましたが…
結局あんまり変わってなかった冷や汗
それどころか、


「素顔の彼女は男性的で…」


と、女性らしさのなさにますます拍車が掛かるような言葉が
付け加えられておりましたよ泣き顔

ま、いいんですけどね。
実際当たってるし(笑)


「上の平さんは言葉はつっけんどんだけど行動が優しい人です。」

「それ、褒めてんですか?!」

「あっはっは!
 いや、褒めてます、褒めてます(笑)」


私はどこまでも女性らしさに欠けるらしいたらーっ(汗)
でも、ま、褒めて下さる点を重視して素直に喜びたいと思います(笑)


あ…そういえば、彼のところで頂いた役は
女性らしくて、無口で、純粋で、儚げな役が多かったように思う…

私はその時の役に応じて稽古場での在り方が変わるようなので、
私を静かにさせておくためのキャスティングだったんでしょうか???
聞いておけばよかったな〜ウッシッシあせあせ(飛び散る汗)







「あなたは非常に感性の鋭いかたですよ。
 もっとご自分の内面の揺れに素直になりなさい。」


うんと若い頃、まだ自分で自分に“タガ”を嵌めて
窮屈になっていた頃にかけて頂いた言葉。



「今や日本は桃源郷です。
 この国ではもう演劇は衰退するばかりです。
 真の演劇人は育ちません。
 さあ、上の平さん、
 見て下さい、このノッペラ坊の群れを。
 今この時代に僕らは演劇人として何が出来るでしょうか?
 何をすればこのノッペラ坊達を振り向かせることが出来るんでしょうか?」


新宿駅前の雑踏の中で…答えられなかった。




「オギャーの精神で生きましょう!」


「俳優は清濁併せ飲んだ上で、
 尚且つ純粋でなくてはなりません。」


「人間は成長する動物です。
 成長はいくつになってもできるんです。」


「人生、急がずに焦りなさい。」



立派なことを言葉にするだけなら簡単です。
彼にはいつでも…最期まで、行動がともなっていた。




    新大久保はよく晴れてる。




発熱中、お絞りでおでこを冷やしながら
出来上がったばかりの台本を読んだ喫茶店。

真夜中まで議論しあったファミレス。

感情の爆発を抑えられずに泣きじゃくった公園のブランコ。

打ち合わせしたり、掴み合うように喧嘩したり、ひっくり返って爆笑したりした居酒屋…



…沢山の言葉や記憶がどっと押し寄せ、
新大久保の駅からスタジオまでの道すがら、
私は堪えきれず、
流れるままに涙を許して歩いていました。


だから、『涙の新大久保』(笑)。


しかし、その涙は単なる“センチメンタル”ではない。

















彼は今頃、敬愛してやまなかった師匠達や宮地さんらと、
お酒を呑みながら楽しく笑って話してるだろうか。


もし、私が今死んでも、
ごめん、漠さん、
私はまだまだあなたに何も恥じることなく談笑することなどできません。



















〜写真〜

 1. 母を背後に襖を閉じる忠太郎(中島史喜)

 2. 兄を想うお登勢(上の平 多香)

 3. 『Come Back』作詞/作曲/歌唱 高橋海人


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