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大都市上空に停止する巨大な宇宙船。
その宇宙船は、何もせず、ただ、佇むだけで圧倒的な文明と科学力の差を見せつける。
そして、遂に、人類に争いのない世界がもたらされた…
この、有名なアーサー・C・クラークのSFの古典『幼年期の終わり』の導入部分と比較して、本作は、多くの類似点を感じることができます。
当然のように、この作品で描かれる異文明の体現者達も、また、『幼年期〜』と同様に、大抵の場合に忌み嫌われるであろうグロテスクな造形でありました。
しかし、この作品が、引用元と決定的に異なるベクトルを有していると感じるのは、人類が『上位進化できない種』として、描かれていることだと思うのです。
以下、記述の一部に微妙なネタバレを含みますので、十分にご留意ください。
この作品においては、製作者側が、どんなに政治的意図を無視したと語ろうとも、南アフリカを作品の舞台に選んだことや『宇宙難民』を専用居住区に住まわせるといったプロットを前にした途端、アパルトヘイトやイスラエル問題といった、我々人類が、長年直面しながら、未だに解決できないでいる根本的な問題への言及を沸きあがらせてしまうでしょう。
特に、劇中で描かれる、スラム化した『第9地区』での、特定の人種達の行動パターンの描写は、そのまま、アフリカにおける部族対立による内戦の構造をも想起させ、この問題が一方的な『黒人差別』や『民族差別』の事例を取り上げたに留まらず、もっと根源的な問題、人類全体が普遍的に抱えている病理を描いてしまったことがわかります。
この作品で描かれているのは、『差別と貧困』が『格差』によって固定され、さらに、既存社会の弱者でさえも、新たな弱者が現れれば、迷うことなくそれらに差別の矛先を向けるという構図そのもの。
すなわち『差別と格差の無限連鎖』についてです。
そして、結局のところ我々が、生物として『弱肉強食』の論理の延長線で振舞う場合がある以上、それは、人類という種が、一生背負っていかなければならない業のようなものなのではないかと思えてきます。
人間社会が直接的に『弱肉強食』のビジュアルを見せる事は、(まず)ないでしょう。
普通の社会にあって、人間が、直接的に他の人間を捕食するということは考えられません。
例外的に、かつてニューギニアのごく一部に、死者を食すことで魂を弔い、先人の能力を譲り受けるという儀式を行う種族の存在が知られており、クロイツフェルト・ヤコブ病の類似疾患として、クールーが、その種族に特有の土着病であったのは、有名な話です。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E7%97%85)
しかし、人間社会に経済格差というフィルターをあてがうと、『富める者はより長生きして繁殖を有利にできる』一方で、『貧しいものは相対的に生存の機会/増殖のチャンスを奪われ続ける』という図式が透けて見えてきます。
これは、まさに間接的な『弱肉強食』の類似系に他なりません。
つまり、この作品が描いているのは、フィクションとしての未来の人類の姿ではなく、リアルな我々が体現してきた人類史そのものへの総括でしょう。
そして、この作品のラストでは、居住地に取り残された傭兵は、それまで、大人しかった、多数の『難民』に取り囲まれ、無残な最期を迎えます。
この短いシーンから、難民が、人類を前にして、その圧倒的な科学力を誇りながらも穏健然としていたのは、単に、彼らが少数派で、相対的に勢力が弱かったからにすぎないのだという、ドライでシビアな意図が見えてきます。
また、このお話しの後日談を想像するなら、難民が増えた将来において人類との共存バランスが安定的である保障はどこにもなく、あえて、この作品は、その崩壊の可能性を示唆しつつ終劇しています。
ワタクシには、この作品のエンディングが、人類が新しい種に取って代わられるプレリュードに感じられてなりませんでした。
なぜなら、生態系の転換において重要なファクターとなるのは、種の生物的な優位性もそうですが、その種がある一定数を超えて、多数派を占めるに至るかどうかということであり、進化の過程における劇的な変異は、ある系統の連続線上に生じる変化でもたらされることはなく、全く別の系統が、旧主(旧種)を凌駕することで達成されるからです。
実際に、人類の進化の過程上、ネアンデルタール人は、クロマニヨン人によって駆逐されたといわれています。
はたして、『現在の人類』は、未来永劫地上の支配者であり、今後も、その座を『新主(新種)』に取って代わられないと言えましょうか。
もっとはっきり言えば、人類の種としての存続が、新たな支配者を頂点とする食物連鎖の中に組み込まれる以外には、消滅してしまうのではないでしょうか。
この作品のオチは、『幼年期の終わり』へのプロローグと思いきや、『寄生獣』の暗転バージョンといってよいかもしれません。
本作は、人類の理想的進化をあざ笑うかのように、根本的に進歩できない人々の愚かな姿をSF/ホラー/サスペンス/アクション/フェイクドキュメンタリーといった映画的エンタテインメントの味付けにして、無理やり観客の胃袋に押し込んでみせます。
ワタクシは、この作品のあらゆるエンタテインメント要素がごった煮で、何が出てくるかわからない感じを『闇鍋ムービー』と名づけたいと思います。
この闇鍋、吐き戻すのも、飲み込むのもそれぞれでしょうが、えび味やら猫缶味にだまされて、我々自身が、とてつもない毒見役を買って出ていることくらいは、自覚しておいたほうがよさそうです。
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