mixiユーザー(id:733908)

2009年06月13日10:53

24 view

【返信】 他人に影響を与える

一つ前の日記 <a href="http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1194663643&owner_id=733908" target="_blank">【日常】 うつ</a> での、小山ゴンさんのコメントに対する返信です。
まあ返信というか、独り言です。


<blockquote>本当は、人は人を助ける事も救う事も守る事もできやしない。

ただ「助けられた」とか、「救われた」と、受け取る側が
勝手に感じるだけなんだ。と
今は思う。

ただ人は、自分の思うままに、ただ自分の全てをかけて
ただ懸命に生きるだけ。
それに救われるのか、守られるのかは、受け取り方次第。 </blockquote>

助ける、守る、に限らず、他人に対して、「影響を与えよう」 と思っても、与えられるとは限らない。

小山ゴンさんの言うとおり、自分はただ、自分にできる限りのことをやって、それをどう受け取るかは相手に任せるしかないのだ。

もちろん、アムリタさんも言うように、気持ちは伝わる。
「助けてあげたい」 という気持ちはきっと伝わる。
でも、実際それで救われるかどうかは、相手次第、ということなのだと思う。



ここで、マイミク ナルナルさんの日記をご紹介。

愛を失う恐怖を捨て、前進せよ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1188374323&owner_id=15906205

筆者の意図とも、ナルナルさんの意図とも違うと思うけど、僕がこれを読んで思ったのは次の通り。


人は、愛を失う恐怖から、愛する人を嫉妬で縛ったり、愛を要求したりする。
しかし、それは愛にとらわれた状態で、そのこと自体があなたを傷つける。

愛は与えるものである。
一人の人に対しての愛が失われても、愛そのものが失われるわけではない。

愛を失う恐怖にとらわれて愛を求めるのではなく、ただ惜しみなく愛すればよい。
愛を失う恐怖を捨て、前進せよ (ただ愛せ)
(それが受け入れられるかどうかは、相手次第であって、あなたにコントロールできることではない。)



カッコ内は、僕が勝手に思ったことで、書いてあるわけではないけど。
でも、小山ゴンさんの意見に通ずるものはあると思う。

愛することのお返しとして、愛してもらうことを求めてしまうと、傷つくことがある。
そうではなくて、ただ、自分にできる限り、愛すればよい。
それが届くかどうかは、相手次第なのだ。



そしてさらに、自分のちょっと前の日記。

【返信】 不安な夜に (長文)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1149040593&owner_id=733908

あまりに長いので、要点を。

家族や恋愛は、損得ではない。
好きな相手に好かれようと思って、何をしても無駄である。
「なにかをしたから」 好かれる、というようなことはない。
相手が自分を好きになってくれるかどうかは、相手次第なのだ。

ではどうすればよいか。
好きな相手には、してあげたいことを、してあげたいから、する。
それでもし好かれなくても、それはしょうがない。相手次第なのだから。

「そうして、それでも、自分にできること、自分のしたい事を、これでもかってやるしかありません。 」
できる限りのことをして、あとは受け取り手である相手に任せる。



これもちょっと通ずるものがある。気がする。


要はこういうことだ。


人は、他人に影響を与えようと思って、与えることはできない。

救おうとしても、逆に愛されようとしても、それをどう感じるかは、相手次第である。

自分にできることはただ一つ。
<blockquote>ただ人は、自分の思うままに、ただ自分の全てをかけて
ただ懸命に生きるだけ。 </blockquote>

自分をきちんと生きることだ。
それが結果としては相手を助けることもあるし、結果として愛されることもある。
形としての結果だけを求めてもよくないのだ。
まず自分。自分を確立する。
そして、それが他人によい影響を与えることを願う。
それしかできないのだと思う。



ちょっと歎異抄にも似ている。

僕の勝手な理解は以下のとおり。



仏は、我々を救おうと思っている。
我々はそれを信じ、ただ念仏を唱えればよい。
善い事をしようとか、悪いことをすまいとか、そんなことを考えても意味はない。
仏は皆を助けようと思っているのだから。

もし、この信心が間違っていて、仏が助けてくれないのなら、我々はどうせ地獄に落ちる運命だ。
生きている限り煩悩はあるし、罪も犯す。
それでも救われる道があるとすれば、それは仏が助けてくれること以外にはない。

善い事をすれば救われるというのは、「自力」 の考え方だ。
そうではないのだ。
我々は罪を犯し、自力で救われる道はない。
ただ念仏し、仏にすべてをお任せするのだ。(「他力」本願)
その結果がどうなるかは相手 (仏) 次第なのである。





愛を失う (結果が得られない) 恐怖もあるけれど、それでも、前進せよ (自分にできることを精一杯やれ)
結果はついてくるかもしれない。
来ないかもしれない。
それでも、できることはそれだけなのだ。


という、李雨神社の辻説法でした。(返信じゃなくなってる…)
0 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する