一つ前の日記 <a href="
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1194663643&owner_id=733908" target="_blank">【日常】 うつ</a> での、小山ゴンさんのコメントに対する返信です。
まあ返信というか、独り言です。
<blockquote>本当は、人は人を助ける事も救う事も守る事もできやしない。
ただ「助けられた」とか、「救われた」と、受け取る側が
勝手に感じるだけなんだ。と
今は思う。
ただ人は、自分の思うままに、ただ自分の全てをかけて
ただ懸命に生きるだけ。
それに救われるのか、守られるのかは、受け取り方次第。 </blockquote>
助ける、守る、に限らず、他人に対して、「影響を与えよう」 と思っても、与えられるとは限らない。
小山ゴンさんの言うとおり、自分はただ、自分にできる限りのことをやって、それをどう受け取るかは相手に任せるしかないのだ。
もちろん、アムリタさんも言うように、気持ちは伝わる。
「助けてあげたい」 という気持ちはきっと伝わる。
でも、実際それで救われるかどうかは、相手次第、ということなのだと思う。
ここで、マイミク ナルナルさんの日記をご紹介。
愛を失う恐怖を捨て、前進せよ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1188374323&owner_id=15906205
筆者の意図とも、ナルナルさんの意図とも違うと思うけど、僕がこれを読んで思ったのは次の通り。
人は、愛を失う恐怖から、愛する人を嫉妬で縛ったり、愛を要求したりする。
しかし、それは愛にとらわれた状態で、そのこと自体があなたを傷つける。
愛は与えるものである。
一人の人に対しての愛が失われても、愛そのものが失われるわけではない。
愛を失う恐怖にとらわれて愛を求めるのではなく、ただ惜しみなく愛すればよい。
愛を失う恐怖を捨て、前進せよ (ただ愛せ)
(それが受け入れられるかどうかは、相手次第であって、あなたにコントロールできることではない。)
カッコ内は、僕が勝手に思ったことで、書いてあるわけではないけど。
でも、小山ゴンさんの意見に通ずるものはあると思う。
愛することのお返しとして、愛してもらうことを求めてしまうと、傷つくことがある。
そうではなくて、ただ、自分にできる限り、愛すればよい。
それが届くかどうかは、相手次第なのだ。
そしてさらに、自分のちょっと前の日記。
【返信】 不安な夜に (長文)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1149040593&owner_id=733908
あまりに長いので、要点を。
家族や恋愛は、損得ではない。
好きな相手に好かれようと思って、何をしても無駄である。
「なにかをしたから」 好かれる、というようなことはない。
相手が自分を好きになってくれるかどうかは、相手次第なのだ。
ではどうすればよいか。
好きな相手には、してあげたいことを、してあげたいから、する。
それでもし好かれなくても、それはしょうがない。相手次第なのだから。
「そうして、それでも、自分にできること、自分のしたい事を、これでもかってやるしかありません。 」
できる限りのことをして、あとは受け取り手である相手に任せる。
これもちょっと通ずるものがある。気がする。
要はこういうことだ。
人は、他人に影響を与えようと思って、与えることはできない。
救おうとしても、逆に愛されようとしても、それをどう感じるかは、相手次第である。
自分にできることはただ一つ。
<blockquote>ただ人は、自分の思うままに、ただ自分の全てをかけて
ただ懸命に生きるだけ。 </blockquote>
自分をきちんと生きることだ。
それが結果としては相手を助けることもあるし、結果として愛されることもある。
形としての結果だけを求めてもよくないのだ。
まず自分。自分を確立する。
そして、それが他人によい影響を与えることを願う。
それしかできないのだと思う。
ちょっと歎異抄にも似ている。
僕の勝手な理解は以下のとおり。
仏は、我々を救おうと思っている。
我々はそれを信じ、ただ念仏を唱えればよい。
善い事をしようとか、悪いことをすまいとか、そんなことを考えても意味はない。
仏は皆を助けようと思っているのだから。
もし、この信心が間違っていて、仏が助けてくれないのなら、我々はどうせ地獄に落ちる運命だ。
生きている限り煩悩はあるし、罪も犯す。
それでも救われる道があるとすれば、それは仏が助けてくれること以外にはない。
善い事をすれば救われるというのは、「自力」 の考え方だ。
そうではないのだ。
我々は罪を犯し、自力で救われる道はない。
ただ念仏し、仏にすべてをお任せするのだ。(「他力」本願)
その結果がどうなるかは相手 (仏) 次第なのである。
愛を失う (結果が得られない) 恐怖もあるけれど、それでも、前進せよ (自分にできることを精一杯やれ)
結果はついてくるかもしれない。
来ないかもしれない。
それでも、できることはそれだけなのだ。
という、李雨神社の辻説法でした。(返信じゃなくなってる…)
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