【趣味に凝る】
【寸暇を惜しんで勉強する】
【タバコに依存する】
これらは、理由や結果、善悪や道徳観を省けば、どうあれ、好きでそれに没頭するという共通点があると言えるだろう。
・ヘビースモーカーの多くは、現状を良い状態だとは思っていない。やめたいと思いつつもやめられない人が多い事から、タバコという物は自分から進んでやる行為というよりは依存している行為と言えると思う。信念を持って「俺はタバコが好きで癌になろうとも、周りが迷惑しようとも、これだけは貫く!」と心に誓っているのならば、依存+意思が働いているとも言えるのであるが、本気でそう思う人は稀で、何も考えなくても有るのが当然のように吸う人が殆どだろう。これはアルコールやその他の薬や、食べ物にも言えるのかもしれない。
・次に趣味に凝る人。昨日の日記ではないが「ゲーム」が好きで起きている時間は全て「ゲーム」に費やすケースだと、まちがいなく依存している。しかし、暇をみつけては「ゲーム」をする人は依存とまでは言えない気がする。「いや、それも依存だよ!」という人も居るかも知れない。しかしこれが「ゲーム」でなくて「サーフィン」や「釣り」でも依存なのだろうか?全てのジャンルにおいてハマってしまった人はそれは依存しているという状態であり、趣味が良い悪いという差になるのだろうか?「読書」なら高尚で「フィギア集め」ならヲタクって呼ばれるだけで、実のところ、その差は大した事ではないのかもしれない。そしたら、その趣味の差で相手を軽蔑する行為は褒められたモノではないのだろうか?「私の趣味はポロとフェンシングだが、君は野球とか言う下らない俗世間の遊戯をしているのかい?」と「俺の趣味は音楽鑑賞とサーフィンだけど、お前はエロゲ?」とは大差がないのかもしれない。
・最後に、時間がもったいないからと、一生懸命に勉強している人。これもそうしないと怖いのか、そうすべき理由は個々に違うだろうけど、ひたすら勉強するという点において、ひたすらゲームをする人とそれほど大差がないのではないか?と思う。当然人間としての高みを目指す為の勉強であれば、自分の身になるのであろうが、受験勉強の為の勉強など、ロクにその勉強自体は役に立たない。結果大学に合格し、大学を自分の為に利用できて初めてその受験勉強には意味があった事になると思う。そうでなければ苦しい事をする苦行としての意味しかなさない。たしかにそういう経験をしないよりはした方がいいが、ただ知識を詰め込んだ方が利口だなんていうふざけたテストがこんなバカな受験制度を作ったとしか私は思えないので、あまり受験勉強を有意義だとは思えない。話がそれたので修正しよう。受験の為であるにしろ、そうでないにしろ、好きで勉強するタイプの人からは勉強していないと不安だという依存性を感じる事がある。嫌いでイヤイヤ勉強するケースは今回の話にはあてはまらないから除外する。
では結局、この3つの違いは何だろう。好きになってそれがほしくなるという「欲望をみたす行為」という点ではどれも同じだ。根本的な欲望の基本になる所が違うのだろうか?「食欲」をあらわにする行為は別にそこまでハレンチではないが、ハイソサエティな世界ではそれすらハッキリ言わないのがオシャレだとされるのかもしれない。さらに「性欲」ともなると、それをあらわにする行為は普通の生活をしている人でもちょっとオシャレでない。
こうやって考えていくと「自分の欲求をストレートに表現するのはみっともない行為である。」となるように思う。ただし、これが「勉強したいんです」となるとそうでもない。ケースによるとしか言えない。
趣味でもそうだ。「サーフィン」に行きたくて仕方ないヤツはそれほど白い目では見られないが、「エロいフィギアを見ると買わなくてはいけない衝動」にかられるヤツは結構、ヤヴァい人と思われる。
欲望を丸出しにしても「かっこいい」と思われる場合もあるし、それが普通だと思われる場合もある。私なりの結論は「かっこいい」と思われる欲望の対象は「適度に難しい」「一般的である」「見ていても楽しい」という物ではないかと思う。逆に「やたら簡単、もしくは理解し難い」「マニアック」「見ていてさっぱり分からない」という物は気持ち悪がられる。しかし「マニアック」というのには「マニアックなファン」が得てして付くものである。付け加えると「依存している状態」は基本的にかっこ悪い。しかし自分からの意欲的な行動が伴う場合はその限りではない場合がある。
同じ「好きで熱中する行為」なのに、こんなに意味合いが変わるのは何故だろう?日本人以外では文化の差によりこの恥だと思う部分やエチケットの部分が多少変わると思う。しかし、基本的に「好きだからしたい」という欲望が根本になっているという事は「愛」にまつわる欲望に何かヒントが隠されているような気がしてならない。
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