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2007年01月24日11:47

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「義を見てせざるは勇なきなり」

『勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。「義を見てせざるは勇なきなり」死に値しないことのために死ぬことは「犬死」と賤しめられた。』

そんな小難しい文はさておき。

例えば順番を待つ行列に男が割り込んできたり、かわいい女の子が強引にナンパされたたりする現場を見て、ハラが立つ事はあるだろう。ハラが立つ人は「義」があると言える。

しかし実際は「触らぬ神にたたりなし」とばかりに見て見ぬ振りをする人の方が多い。「義」に反する人が、いかにも喧嘩したそうな感じのイカつい人だったら尚更だろう。下手に正義感を出してケガでもしたらバカみたいだし、最近はそんな些細な事で殺人事件にまで発展するニュースをよく見るので、怖かったり、面倒臭かったりする。

どうあれ放置するというのは「勇」がないのである。この状態を「義を見てせざるは勇なきなり」という。

しかし、この「義」が問題であると思う。各々の使命や志によって「正義」の形は違う。そこには必ず派閥が出来、衝突する。幸いにも日本人には「勇」が足りないのでその衝突は穏やかだ。そこで考えたのだが「義」を日々精進して練っているし「勇」もある人間というと権力を持った人間に多いのではないだろうか。例えば「大会社の社長」や「政治家」や「暴力団のトップ」によく見かける事ができると思う。

しかし権力を持った人間には、簡単に咎められる可能性も低く「金」「女」「更なる権力」「名声」などを闇の方法で獲得する道が与えられる。だからそっちに転がってしまう人も多いのだろう。これは「義」がふらついてしまった結果だと思う。
そして権力を握れる程の人間は「勇」はある。「義」がふらつくいているのに「勇」がある人間ほど怖い者はない。今、私はインドネシアに住んでいるが、ここの警察やイミグレーションはまさにそれだ。

権力があればあるほどこの「正義」を保ち続けるのは難しいのだろう。人間の本能がそうする様に出来てないのだろうから、抑制するには相当の精神力がいると思われる。

最近の若者と書くと語弊があるが、最近の傾向として、「義」はあるが「勇」のない人間が多いのは事実であるが、こと匿名性の高いネットになると逆に「義」はないが「勇」があるバカになってしまう人が多いのではないだろうか?

自分が誰だか分からないから、どんな事しても殴られる事はない。家がバレるはずないからイジめられるはずがないと思って、日常生活で出来なかった「勇」の抑圧から一気に開放されてしまっているのではないだろうか。

そうではないと言い切れるなら、2ちゃん等でバカ話している人は全くウソなしで「それは俺だ」とオフ会する根性あるだろうか?身分証明書をお互いに提示して討論できるだろうか?

それはさておき、匿名性により「勇」から開放された人は、じょじょにネットの世界で言葉の暴力という武器を磨き、今まで活躍の場が無かった自分にやっと出番が回ってきたと勘違いし、それに酔い、「偽りの勇」と「偽りの正義」を身につけて、実際に訳の分からない犯罪を犯したりする人がいたりするんではないだろうか?

そういう人間は実際殴られたほうがいい。「痛み」や「生身の人間」について勉強した方がいい。それは「暴力」を知るということだ。個人的には「傷害罪」と「言葉の傷害罪」は同じ重さ、若しくは「言葉の傷害罪」の方が罪が重くても良いと考える。立証が難しいとの理由であろうが「名誉毀損」だけじゃヌルすぎる。

私の意見は、愛や友情のある鉄拳は単なる暴力ではない。これは言葉の暴力においても言える事だが、相手がそれを理解してくれているかどうかにつきる。どんなに愛し合ってる間柄でも、それを理解できない間柄なら、言葉であれ、殴るであれ、単なる暴力だ。

個人的には自分より明らかに体力的に劣っている人間を殴るのは邪道だと思うし、男が女を殴るのはありえないが、分かり合っていれば、何かを分かってもらいたくて殴る場合があってもおかしくないと思う。しかし、それすら理解ができなく、どんな場合においてもそういう行為は単なる暴力だとする相手を殴るのはダメだろう。

それを盾にして殴られない様に生きているのと、どんな場合でも暴力はいけないと考えるのとでは全然違う。ビビっているのに、正論っぽい事を盾にすれば助かると考える浅ましい根性の男は論外だ。本当に「暴力はどんな時であろうがいけない」と思う信念の人は、暴力には屈しない。故に怖くても、殴られても逃げない。

私の「暴力」という言葉の使い方に問題があるのかも知れない。「意味のない攻撃」=「暴力」と言っているのではなく、「全てのケースにおいての攻撃」=「暴力」と解釈していただきたい。

「暴力は、いいか、いけないか?」と聞かれれば「いけない」と答えるだろう。ただ、「知るべきか?知らなくていいか?」と聞かれれば「知るべき」だと思う。理論派の頭でっかちの人も運動ばかりで知識が少ない人も、偏った人であるのは間違いなく、個人差で得手、不得手もあろうが、いわゆる「文武両道」が立派な人間の自然な姿であると思う。

スポーツは喧嘩しない為の代用品であろうが、それでは足りない部分は沢山ある。ボクシングや空手など喧嘩に近いスポーツにこそ、その真髄はあると思う。ただ、さっきも書いた通り、それなりに強い人間、権力を持った人間は、「義」が揺らぐので、それに打ち勝った人間のみがその領域に達し、揺るいでしまった人間は「チンピラ」みたいな印象を受けるだろう。

そして全ての人間には裏と表があり、それは剥がす事が出来ず、混じりあっているので、一概に一方向の要素だけで見る事が出来ないので混じりあった中を見抜く能力を個々に養う必要もあると思う。

しかし「正義」を追い求める先にある物は、どんな立場の「正義」であても、みんな似通っているのではないだろうか?

そして本当の意味で「義」と「勇」を持った人間とは、最初の割り込みの男に対してハラを立てるのではなく、それがどうしていけない行為なのかを諭してあげる気持ちで接して、例え相手に殴られても、それを許す気持ちがあるのではないだろうか?殺されるかも知れない状況になれば、当然自分の身を守る為の行為はするであろうが、そうでなければ、怒るところですらないのかもしれない。




写真1:バリの田舎の田園風景

写真2:海と高原とバリ牛

写真3:去年の雨季のレギャン通り



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