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2026年10月20日23:58

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<ガザでの大規模衝突から3年 中東和平の原点へ ジミー・カーター大統領の取り組み> 第4回 第3章 (2)シャルム・エル・シェイクとオスロ合意――二国共存の模索と頓挫

<ガザでの大規模衝突から3年 中東和平の原点へ ジミー・カーター大統領の取り組み> 第4回 第3章 (2)シャルム・エル・シェイクとオスロ合意――二国共存の模索と頓挫

 第3章 シナイ半島 民族融和の地

前回第3回 第3章 (1)十戒の山に抱いたロマンとリアリズム
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(2)シャルム・エル・シェイクとオスロ合意――二国共存の模索と頓挫

エジプトとイスラエルの和平は、シナイ半島の風景そのものを変えた。かつて軍事的要衝だったシャルム・エル・シェイクは、返還後、停戦監視と首脳外交の舞台へと転じる。だがその安定の陰で、棚上げされたパレスチナ問題は残り続けた。

 目次
1.多国籍部隊・監視団(MFO)とシャルム・エル・シェイクの変貌
2.ノルウェーの仲介と「オスロ合意」から二国共存の頓挫
3. 和平サミットの軌跡と、緊迫化する現代の中東情勢
まとめ 和平を実現した先に、何が残されたのか――カーター大統領が託した希望

1.  多国籍部隊・監視団(MFO)とシャルム・エル・シェイクの変貌

平和条約に基づき、1981年には多国籍部隊・監視団(MFO)がシナイ半島に派遣された。本来は国連の監視団が担うはずだったが、常任理事国ソ連の反対で実現しなかった。そこで西側諸国などが加わる形で、独自の停戦監視体制が整えられたのである。

MFOの本部はローマに置かれたが、現地の司令部はシナイ半島南部のシャルム・エル・シェイクに設置された。紅海に面するこの都市は、人口5万3680人(2022年時点)。1967年の第三次中東戦争後、イスラエルの占領下でオフィラという入植地が築かれ、空軍基地などのインフラ整備が進められた。返還後、エジプトは旧空軍基地を国際空港へ転用し、観光開発を進めた。ダイビング客向けのホテルも建ち並び、かつての軍事拠点は紅海リゾートへと姿を変えていった。

 憲法9条の下で自衛隊の活動に制約がある日本でも、2019年以降MFOに参加している。2019年4月から継続的に4名の隊員を派遣し、非武装地帯のシナイ半島で任務に当たっている。2025年9月1日時点で延べ20人が、けん銃と小銃のみの軽武装で、治安維持につとめた。

写真�亜�MFOの任務の一環として平和維持活動する自衛隊員 
フォトフォト

 国際政治の場でも活用されている。2021年9月13日、当時イスラエルの首相を務めたベンネット氏と、エジプトの現職シーシ大統領が首脳会談を開いた。同年5月には、ガザ地区にてハマスとIDFの衝突が起こっていた。双方にパイプがあるエジプトの外務省が、アメリカの協力を得て、仲介に奔走して、停戦にこぎつけたのである。両首脳の対話内容について明かされていない。イスラエルの首脳によるエジプト訪問は、10年ぶりだった。

 写真�院.戰鵐優奪伴鸛蝓丙限Α砲肇掘璽径臈�領(右側)
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 2. ノルウェーの仲介と「オスロ合意」から二国共存の頓挫

エジプトとイスラエルが締結した平和条約は、アラブの諸国を差し置き、二国間の取り決めである。いったんパレスチナ問題を脇に置くことで決着を付けたとはいえ、引き続き自治権獲得へ向けて国際的にも議題の対象になった。平和条約に強く反発したのはアラファト議長が率いるファタハを主流としたPLOだったのである。アラブ人の結束力はパレスチナの建国を掲げることで支えられていた。エジプトのイスラエルとの和平政策は、いわゆる抜け駆けと捉えられる行為だったのである。アメリカ側は、政権が変わっても、イスラエルの安全保障の観点から、アラブ諸国との緊張緩和へ向けて働きかけていた。意外にも動き出したのは、ノルウェー政府だった。平和の理念を体現する政府の意向から当時のホルスト外相が、パレスチナ問題へ解決策を探っていたのである。政治的なタイミングも重なり、パレスチナ自治区制定へ向けて、後押しした。1992年にイスラエルは、25年ぶりに労働党が第一党になり、アラブ人への融和策をとる。クネセトにて首相に指名された労働党の党首ラビンは、兼ねてからノルウェーのホルスト外相と親交があった。二人は秘密裏に協議を重ねていた。翌1993年春頃、詰めの調整のために、PLOのアッパス事務総長(2026年時点では議長に昇格している)をノルウェーに呼び、イスラエルのペレス外相との間に入り、合意案を提示した。8月20日に概ねまとまった。1994年から1999年の5年間の区切りを設けて、イスラエルは、アラブ人によるパレスチナの自治を認めたのである。アラブ人側もテロ防止に努めることを約束した。

写真�押�1993年時のペレス外相(左側)とホルスト外相(右側)
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9月13日に、当時の米ビル・クリントン大統領が、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長をホワイトハウスに招待した。パレスチナの暫定自治を盛り込んだ協定文に、ラビン首相とアラファト議長は署名する。その様子をカーター大統領は来賓席の一番前で見守っていた。彼が大統領時代に取り組んだエジプトとイスラエルの協定では、パレスチナ問題を見送ることで、妥協を迫ったのである。将来的な自治交渉の可能性を残すことで、ひとまず折り合いをつけた。キャンプ・デービッド合意から15年、ついに期間限定にせよ、アラブ人によるパレスチナの自治区が容認されたのである。仲介にあたったノルウェーの首都名をとって、この枠組みは「オスロ合意」と命名された。
合意締結に貢献した当時PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相、またイスラエルのペレス外相は、1994年にノーベル平和賞を受賞している。

写真�魁.�スロ合意の締結時の様子 (署名中はペレス外相。右側アラファト議長、隣クリントン大統領。左側ラビン首相)
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なおアラブ人による暫定自治区容認へ取り付けたホルスト外相は、合意締結直後の1994年1月に脳卒中で急逝された。56歳の若さだった。彼の功績を称えて「ホルスト基金」などが作られている。

合意内容に従い、1994年から1999年には暫定的にアラブ人による統治が始まった。パレスチナ自治区内でアラブ人は、治安維持に務めながら行政サービスを提供するべく新政府を発足する。初代大統領としてヤーセル・アラファト議長が就任した。1994年5月にカイロ協定締結により、ヨルダン川西岸地区ジェリコにて、最初の自治区が制定される。同年ガザも自治区に制定された。


1994年10月26日には、再びクリントン大統領の下で、重要な取り決めが交わされた。ヨルダンが、イスラエルとの国家承認へ踏み切ったのである。イスラエルのラビン首相とヨルダンのフセイン一世が対面した。ヨルダンのワディアラバの谷にて、「ヨルダンイスラエル平和条約」を締結した。アラブ諸国でのイスラエルの国家承認は、エジプトに次ぐ2例目である。両国間で大使館を設立し、水資源を管理する。また将来のパレスチナの建国を目的に、オスロ合意の推進が盛り込まれた。翌1995年ヨルダン川西岸地区にてアラブ人の自治区が拡大された。
 アラブ人とユダヤ人による二国共存へ向けて歩みだした矢先に不幸が起こる。1995年11月4日に、合意に貢献したイスラエルのラビン首相が暗殺される。73歳だった。アラブ人の主張を一定程度受け入れ、争いの回避を優先した政策は、ユダヤ至上主義者から反感を買っていた。イスラエルに住む多くの人々は、ラビンの死を悼んだ。暗殺された現場となるテルアビブの広場に蝋燭を点した。11月6日の葬儀には、エジプトのムバラク大統領と共にヨルダンのフセイン一世国王も参列した。
後任の首相は、ノーベル平和賞を共同受賞したペレス外相だった。ペレス氏はオスロ合意を尊重する。ただし、外圧にさらされ続けた。アラブ人による散発的なテロによって、イスラエル国内の平穏は崩れていた。北からはレバノン南部を実効支配するヒズボラが攻撃を仕掛ける。平和賞を受賞したとはいえ、自衛権を発動して、武力で応戦する選択をした。当時最大野党だったリクードの党首ベンヤミン・ネタニアフ氏は、政権交代を狙い、現ペレス首相が率いる労働党の政策を批判したのである。1996年の総選挙を経て、首相公選にて、得票率でわずか1%の差で、ネタニアフ氏が、ペレス氏を上回り、首相の座を手にする。リクード党は、パレスチナ自治の拡大は明確に反対した。アラブ人の住処を奪うかのように、ヨルダン川西岸での入植活動を進めた。対抗して反ユダヤ主義を掲げるハマスがテロ活動を行った。安全保障の観点から、米国を主導とした第3国が介入して、事態の収拾に努めた。相互不信は深まり、二国共存への道は再び狭まっていった。

 平和的解決へ向けてアラブ諸国や欧米各国の機関が集い、会議を開いた。その舞台は、シャルム・エル・シェイクだった。1996年3月3日に、米国と欧州やアラブの29の国や機関が集い、「平和創始サミット」を開催した。テロ防止への協力、民族間の争い防止に向けて解決していくことを誓った。1999年に暫定自治の期限が切れると、パレスチナの土地をめぐって、統治のあり方について再度協議をする。

写真�粥�2000年7月11日キャンプデービッド荘にて クリントン大統領(左側)が見守る中握手するアラファト議長(真ん中)とバラク首相(右側)
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西暦2000年7月に、イスラエルのバラク首相とPLOのアラファト議長が、クリントン大統領によってキャンプデービッド荘に呼ばれた。パレスチナ難民の帰還や聖地エルサレムの土地が議題に上ったとみられる。バラク首相は譲歩の姿勢を見せたものの、アラファト議長が拒否したと、当時メディアは報じていた。アラファト議長には、世界中に散らばったパレスチナ難民の帰還を求めていたのである。イスラエル側は、パレスチナ人が増えれば、自らの土地を脅かされる。到底受け入れがたい内容だった。

 アラブ人による建国は5年間の暫定自治を経ても認められなかったのである。西暦2000年9月8日から、1987年に次ぐ第二次インティファーダーが開始された。いわゆる民族によるいっせい蜂起である。2001年にはさらにエスカレートした。
分裂を決定的にしたのは、当時のシャロン国防相(後に2001年3月7日ー2006年4月14日まで首相を務める)の掟破りの行為にある。ユダヤ教の古代神殿嘆きの壁を超えて、イスラム教の岩のドームへと踏み込んだ。「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と誓ったのである。アラブ人の立場から聖地を犯される挑発として受け止められた。民族間の溝が深まり、パレスチナの所有権をめぐって、奪い合いが起こった。

2005年2月8日に、シャルム・エル・シェイクにて、欧米各機関とイスラエルと和平を結ぶエジプトとヨルダンの首脳級が会議に参加した。結果イスラエル軍はガザ地区からの撤退、ヨルダン川西岸には分離壁の建設で合意に至った。2008−2009年のIDFによるガザ侵攻、2014年のガザ紛争を含め、隣り合うユダヤ人とアラブ人の対立の火種は残り続けた。イスラエルとの和平を遵守するエジプトが調停に名乗りを上げて、停戦合意に至っていた。

外部の仲介によって、かろうじて全面的な崩壊を回避してきたにすぎない。オスロ合意が描いた二国共存の構想は完全に頓挫した。2005年に再びシャルム・エル・シェイクで和平会議が開かれた後も、ガザとヨルダン川西岸をめぐる対立は解消されなかった。2023年10月7日以降、ガザでの戦闘は再燃し、ヨルダン川西岸でも入植拡大が続いている。相互に土地を譲らない現実の前で、二国共存は大きく遠のいてしまった。

 3. 和平サミットの軌跡と、緊迫化する現代の中東情勢

 2025年10月13日には、シーシ大統領とアメリカのトランプ大統領が共同議長を務める「ガザ戦闘終結に向け国際首脳会議」を実施した。当時のイギリスのキア・スターマー首相やフランスのエマニュエル・マクロン大統領、イスラム圏やアラブ地域の指導者ら20人以上が参加した。トランプ大統領は、当事者であるイスラエルのネタニアフ首相も加える必要性から、共同議長を務めるシーシ大統領に参加の合意を取り付けていた。出席者のトルコのエルドアン大統領と当時イラクのスーダーニ首相が、猛反発したことにより、実現はしなかった。公には、ネタニアフ首相の休日に近いことを理由に、欠席とされた。

写真21 2025年10月13日トランプ大統領とシーシ大統領 シャルム・エル・シェイクにて 
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 2025年10月10日のガザでの戦闘停止から1年。いまだに緊張状態が続いている。IDFによる大規模攻撃は、レバノン南部の民兵組織ヒズボラやイエメンの首都サヌアを実効支配するフーシー派の攻撃心に火をつけた。ハマスを含めて3つの組織を支援するのは、イランだった。イランは1979年にイスラム共和体制へ移行後、イスラエルの生存権を否定している。2026年2月28日以降、アメリカとイスラエルによるイランへの軍事作戦が開始され、中東情勢は不透明感が増す。2026年9月25日、イランのアラグチ外相がカタール経由で、ホルムズ海峡を7日以内に再開する案を米国に提示したとされる。仲介国を交えた協議が進んでいるとみられている。

 10月5日、アメリカのバンス副大統領が、中間選挙に向けたアラスカ州の州都フェアバンクスの国際空港での演説後、イランの核開発を容認できないとの認識を示した。

写真22 2026年10月5日アラスカ州フェアバンクス国際空港で演説するバンス副大統領
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 対立の根源は2023年10月7日から始まったガザ紛争との見方も強い。世界のエネルギー市場を左右する中東情勢の安定は、遠く離れた日本の人々の生活も左右する。次回は、エジプトの外交政策やカーター大統領の人権外交にも迫っていく。

 まとめ 和平を実現した先に、何が残されたのか――カーター大統領が託した希望

 1978年、キャンプ・デービッド合意によって、エジプトとイスラエルは和平への道を切り開いた。翌1979年には平和条約が締結され、長年にわたって戦火を交えてきた両国の関係は、大きな転換点を迎えた。ジミー・カーター大統領が仲介に力を尽くした成果である。

 しかし、その和平は中東のすべての対立を解消したわけではなかった。シナイ半島の返還とエジプト・イスラエル間の国交正常化が実現する一方、パレスチナの人々の将来をめぐる問題は残された。カーター政権下の合意にもパレスチナ自治に向けた枠組みは盛り込まれていたが、具体的な解決には至らなかったのである。

 1993年、ホワイトハウスでオスロ合意の署名式が行われた。イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が並び、クリントン大統領が見守る。その場に、かつて両国の和平を仲介したカーターも立ち会っていた。

 キャンプ・デービッド合意から15年。彼が大統領時代に残した課題の一つであるパレスチナ自治が、ようやく具体的な合意として前進しようとしていた。そこには、外交によって対立する人々の間に道をつくることは可能なのだという希望があったはずだ。しかし、オスロ合意もまた、恒久的な和平を保証するものではなかった。ラビン首相の暗殺、相互不信の深まり、度重なる暴力によって、二つの国家が共存する構想は次第に遠のいていった。

 カーター氏が仲介したエジプトとイスラエルの平和条約は、今日まで両国間の外交を支える重要な基盤であり続けている。一方、パレスチナ問題は未解決のまま、ガザ地区やヨルダン川西岸をめぐる対立として現在に引き継がれている。シャルム・エル・シェイクが首脳会談や停戦交渉の舞台となってきたことも、和平が一度の署名だけで完成するものではないことを物語っている。



カーターの外交を振り返ると、そこには一つの大きな問いが浮かび上がる。目の前の戦争を終わらせるために妥協することと、紛争の根本にある不公正や不信を解消することは、同じではない。 一つの和平を実現することはできても、それだけですべての人々に平和をもたらせるわけではないのである。

 それでも、対立する指導者たちを交渉の席に着かせ、互いに譲歩する道を探り続けることには意味がある。カーターが残した功績は、エジプトとイスラエルの間に平和を築いたことだけではない。解決が容易ではない問題から目をそらさず、対話の可能性を探り続けた姿勢にも、その意義を見いだすことができる。1999年8月9日、クリントン大統領はアトランタのカーター・センターを訪れ、カーター氏に大統領自由勲章を贈った。元大統領としての人道活動だけでなく、中東和平を含む長年の外交努力に対する評価でもあった。クリントン大統領から勲章を授かる写真は、民主党政権における「中東和平外交のバトン」を象徴する光景だった。

 写真23 カーター大統領。1999年8月9日、アトランタのカーターセンターを訪問した現職(当時)クリントン氏から勲章を授かる。 
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 2023年10月7日以降、ガザ地区では再び大規模な戦闘が起こり、中東の和平は厳しい現実に直面している。停戦や首脳会談が実現しても、土地、安全、自治、相互承認をめぐる問題が解消されなければ、平和は脆弱なままだ。

 カーターが生涯を通じて取り組んだ和平外交は、過去の成功譚として振り返るだけのものではない。戦争を止めることと、その先にある共存を築くことは別の課題である。その困難さを示したのが、シナイの和平の後に残されたパレスチナ問題だった。だからこそ、彼が問い続けた「対話による和平は可能か」という問題は、いまなお中東と世界に突きつけられている。


 出展先一覧

写真�亜�MFOの任務の一環として平和維持活動する自衛隊員 詳細 MFOでの任務について 防衛省・自衛隊ホームページ https://www.mod.go.jp/j/approach/kokusai_heiwa/pko/201904_egy.html

写真�院.戰鵐優奪伴鸛蝓丙限Α砲肇掘璽径臈�領(右側)掲載元 Mt.OLIVE NEWS 2021年9月15日付 https://mtolive.net/%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%a9%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%81%a8%e3%82%a8%e3%82%b8%e3%83%97%e3%83%8810%e5%b9%b4%e3%81%b6%e3%82%8a%e9%a6%96%e8%84%b3%e4%bc%9a%e8%ab%87%ef%bc%9a%e3%82%a8%e3%82%b8%e3%83%97%e3%83%88/

写真�押�1993年時のペレス外相(左側)とホルスト外相(右側) 掲載元  zinow
http://zinow.no/tngfiles1010/showmedia.php?

写真�魁.�スロ合意の締結時の様子 (署名中はペレス外相。右側アラファト議長、隣クリントン大統領。左側ラビン首相)出典:AFP通信掲載元 THE New Youk Times 2013年8月30日の記事より https://www.nytimes.com/2013/08/30/opinion/global/oslo-20-years-later.html

写真�粥�2000年7月11日キャンプデービッド荘にて クリントン大統領(左側)が見守る中握手するアラファト議長(真ん中)とバラク首相(右側)出展:AFP通信 掲載元 ARAB NEWS 2024年5月5日付 https://www.arabnews.jp/middle-east/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%AD%E5%90%88%E6%84%8F%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E4%BA%BA%E3%82%92%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E3%81%AB%E5%B0%8E%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-118363

写真21 2025年10月13日トランプ大統領とシーシ大統領 シャルム・エル・シェイクにて 出展:ロイター通信 掲載元 ARAB NEWS 2025年10月14日付
https://www.arabnews.jp/middle-east/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8D%94%E8%AD%B0%E3%81%A7%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E3%81%AB%E9%87%8D%E8%A6%81%E3%81%AA%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%82%92%E6%9E%9C%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B7%E6%B0%8F%E3%82%92%E7%A7%B0%E8%B3%9B-160295

写真22 2026年10月5日アラスカ州フェアバンクス国際空港で演説するバンス副大統領(出典:ロイター通信)
 掲載元 ARAB NEWS 2026年10月7日付 

写真23 カーター大統領。1999年8月9日、アトランタのカーターセンターを訪問した現職(当時)クリントン氏から勲章を授かる。掲載元 NBC 5 Chicago 2024年12月29日付け記事 https://www.nbcchicago.com/news/national-international/jimmy-carters-life-in-pictures/3633934/


 以下参考作品

オスロ合意について

・2024年7月30日付 パリ・オリンピック企画5 紀元前から続くイスラエルとパレスチナの戦い、アラファト議長、エジプト・イスラエル平和条約 バビロンの捕囚、1972年ミュンヘンオリンピックの黒い霧事件 1993年オスロ合意
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988097546&owner_id=32437106&from=list_diary_title

シリーズ <ガザでの大規模衝突から3年 中東和平の原点へ ジミー・カーター大統領の取り組み>

第1回 1973年の第4次中東戦争 キッシンジャー国務長官の巧みな外交政策
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1992992025&owner_id=32437106&from=list_diary_title

第2回 アラブの原則に反するエジプト、イスラエルと対話へ
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1993001922&owner_id=32437106









■中道に政党交付金5.8億円=事実上解体、衆院議員1人
(時事通信社 - 10月20日 16:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8995559
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