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2025年10月25日02:26

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石破茂首相の「戦後80年所感」全文

■石破首相、退任前に執念=保守派に配慮「謝罪」なし―戦後80年所感
(時事通信社 - 10月11日 07:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8511981

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石破茂首相の「戦後80年所感」全文
過去3度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。

国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。

第1次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。

政府および軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元首相の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。

戦後80年の節目に、国民の皆さまと共に考えたいと思います。

まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。

大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。

内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。

それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。

元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えた後には、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。

第1次世界大戦によって世界に大きな変動が起こる中、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。

1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。

従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。

しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府および議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。

政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。

しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるよりほか仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を2度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。

このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。

本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。

その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。

議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。

戦況が悪化し、財政が逼迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益とメンツをかけ、予算獲得を巡り激しく争いました。

加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。

五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。

もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。

1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。

深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが高揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。

こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムはさらに高まりました。

日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋ごろから、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

当時、政府をはじめとするわが国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。

戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。

内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。

さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、さらなる進展が求められます。

政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。

政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たなければなりません。

自衛隊には、わが国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。

政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。

政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術に例え、「相当の心配はありますが、この大病を癒やすには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。

政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。

国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。

使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論をあおり、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。

安倍元首相が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。

これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱な民主主義が何よりも大切です。

ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、時に過ちを犯すものです。

だからこそ、われわれは常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。

自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。

同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディア全てがこれを常に認識しなければならないのです。

斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。

翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。

どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は開けません。歴史に学ぶ重要性は、わが国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。

戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。

私は、国民の皆さまと共に、先の大戦のさまざまな教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、あたう限りの努力をしてまいります。
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【談話要約】
第一次世界大戦以後、戦争は国家総力戦へと形状を変えた。これは科学技術の発達と工学による当然の帰結だろう。

第二次世界大戦は国家総力戦の総決算であり、日本は開戦前に相当正しく敗戦を予測しほぼその通りの推移となったが、なぜその知識は戦争回避を実現できなかったか?

米内光政の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう」東条英機の戦争回避の試みの結果として、戦争は決断された。

帝国憲法の仕組みとして統帥権の問題がある。今でいうシビリアンコントロールの概念は無かった。軍予算は政府、軍作戦は軍。これらが互いに牽制する形になっていた。

内閣は予算を渡さない事で軍部を制御できた。構造上はこれでコントロールできたはずだが内閣総理大臣と陸軍大臣、海軍大臣は、対等な関係であり、官庁の総合性は希薄だった。対立構造は内在していた。

日露戦争までは元老が調整役としての機能を発揮していた。丸山真男の指摘する「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化を実現していた。この明文化されていない正式な組織ではない元老が消えてゆく事で帝国憲法の調整役のいない欠陥が露呈する事になる。抑制系T細胞が失われた状況に似る。

大正デモクラシーで政党政治が発達する。1920年代、鬼殺隊が無惨様を追い詰めている頃、世論は軍に厳しく、世界は大規模な軍縮を模索していた。軍人は肩身の狭い思いをし、その反発から昭和期の軍部の反撃があったと主張する研究者さえいる。どうやら日本人の精神は幼児のままである。

統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限る。予算や体制に関わる軍政は、内閣の一員としてる陸軍大臣が輔弼する。文民統制不在の制度的欠陥を、元老、次に政党が、運用によって補う。

しかし、軍は統帥権の拡大解釈を持ち込み、軍部大臣現役武官制を利用する。政府の暴走から軍および戦争を回避する手段であった制度は、軍が暴走して戦争を継続し内閣を倒閣する手段として使える制度でもあった。それに昭和の軍人たちが気づく。

1935年、美濃部達吉の天皇機関説さえ議論できない程に日本人は幼稚であった。岡田啓介は「学者に委ねるよりほか仕方がない」と考えたが、最後は軍部の要求に屈し、美濃部の著作は発禁にされた。

政府も議会も軍の統制を失う。その最たる例が、1940年2月2日の斎藤隆夫の反軍演説と賛成296票、反対7票の圧倒的多数での除名である。当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままになっている。何が戦争の反省か。

1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年は、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上される。その審議で予算書に内訳はなく、衆議院・貴族院とも秘密会で審議に値せず通した。

いかなる時も官庁の正義は予算獲得にある。これがなければ政策を実現できないのだから当然である。しかし現実的には妥協が必要である。この調整力が明治憲法下では脆弱であった。

更に国粋主義者や青年将校らによる社会状況の不安定さが軽視され過ぎた。なぜ社会にクーデータが内在していたのか。社会の分断、強力な対峙が暗殺に向かう。その対象は国際協調を重視し、政治が軍を統制しようとする政治家であった。

軍はクーデータを警戒するのが最重要事項となった。それはある程度の暴走は許容する方向で軍政を動かしてゆく。クーデターが起きるくらいなら、中国大陸で勝手に戦争を始める方を受け入れたのである。

議会、政府、文民が軍を後追いで承認するのもまたクーデタへの警戒からであった。必要なのはスターリンのような粛清であった。それを持たない帝国政府はいい意味でも悪い意味でも仲良しこよしの集団であった。

メディアは売上を伸ばすために戦争を賛美した。1920年代のメディアは日本の対外膨張に批判的で、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張っていたが、満州事変以降、戦争報道が「売れる」商売であるという理由から一気に変わった。

1929年の米国の大恐慌を契機に世界経済は幾つかのブロック経済圏を模索する。世界的不況、貧困という問題がナショナリズムの高揚、ドイツ、イタリアのファシズムの台頭へと繋がる。米国にもファシズム党が旋風していた。人々の不安がどこにあったのか、神の失墜と民族的高揚は無関係ではあるまい。

ソ連は資本主義不況の影響を受けず順調に発展しているように見えた。自由主義、民主主義、資本主義の対立軸として、全体主義、社会主義、共産主義があった。マルクス主義はその根底に貧困問題への提言であったから、注視は妥当と思える。貧困問題は当時も今も最重要な政治的課題である。

関東軍が満州事変を起こし満州国を建国する。吉野作造が軍部を批判し、清沢洌は松岡洋右の国際連盟脱退を厳しく批判したが1937年秋からそれも失われる。

当時の政府が国際情勢をどう認識していたか、地政学的に言えば日本は明らかに二流国であった。当時の日本は単独独立から脱却できなかった。1939年8月独ソ不可侵条約、平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職する。

日本国憲法下ではクーデタがない限り、軍部による独走は考えにくい。とはいえ、自衛隊員による市民への暴言が黙認されており、軍の威信や信頼を著しく棄損する行為も許容されている。これは警察にも見られる。

独走する軍部を統制できない戦前の欠陥を踏まえ、現行制度は改善されている。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用しなければ暴走可能である。

政治には軍を運用する能力と見識が要る。文民統制を理解し運用する不断の努力が必要でこれをポピュリズムに明け渡せば消えてしまう。それが政治家の矜持と責任感だけで維持できるだろうか。米内山本井上でさえ流れを変える事に失敗した。

現代軍が求める技術の高度さはアメリカと中国が突出しており、他国では太刀打ちできない。ロシアは既に遅れ始めている。アメリカも遅れ始めているかも知れない。自衛隊の専門性と言っても世界の潮流を追いかけるのみである。

政治が、官僚組織の縦割りを調整する。それで日本の国益を追求するのか、一部の既得権益者たちを富ませ格差を拡大するのか。貧困が国家を揺るがす分断をもたらすのは今や明らかだ。

陸軍と海軍が互いの組織の論理を最優先に対立したのは官僚としての当然。ここで間に立ち、軍令と軍政を連携させ調整する役割を欠いた事が戦争に流れた直接的な原因だろう。

そして実現性に乏しく高リスク出鱈目な政策であっても、勇ましい声や大胆な解決策に飛びつく国民性。

海軍永野修身は「相当の心配はありますが、この大病を癒やすには大決心をもって国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機も、近衛文麿に、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫った。

彼らは敗戦の可能性高い事を知りつつも、右肩下がりの状況において、明日よりも今日の方がまだ勝ち目がある、半年後にはどうしようもなくなると判断した。

合理的な判断よりも精神的情緒的な判断を重視した状況もよく紐解けばそれなりの合理性は見つけられる。でもそれではどうしようもない。その程度の所にしか解決策を見つけられなかった当時の状況はまだ解明途中だ。

政府の誤りを議会やメディアで訂正できる問題とも思えない。だれにも答えはない。それらが正しく機能していたら問題は解決できたのか。大規模な粛清しかなかったはずだ。梅津美治郎が関東軍を押しとどめるのに会話は必要なかった。ただ必罰をもってするだけで充分だった。その程度の軍人が暴走を繰り返していたのである。

党利党略と己の保身に走る政党、世論をあおり、広告業の担い手として商業コンテンツを流し続けるジャーナリズムを自称するメディア。資本主義の究極化が到来しつつある。過度な商業主義、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を選ぶ国民とは何か?

さて過去を直視する勇気、誠実さ、謙虚さ、寛容をもって本来のリベラリズム、本来の保守を掲げれば健全で強靱な民主主義は実現できるのか。

ウィンストン・チャーチルは民主主義は完璧な政治形態ではないと言った。民主主義のコストと時間は決して少なくはなく、過ちも犯す。

斎藤隆夫議員は反軍演説で、世界の歴史は戦争の歴史であり、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服すると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤る事があってはならないと論じた。

翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ禁止した。

どちらも遠い過去の出来事であるが、今に続くまっすぐな道である。これらは断絶した過去ではない。戦争の記憶も風化するだろうが、それを伝える技術は大きく発展している。

私は、国民の皆さまと共に、先の大戦のさまざまな教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、あたう限りの努力をしてまいります。

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