場所は森小学校の正門の左手の植え込みの中にあります。その碑の前に看板があり曰く
桜御前(さくらごぜん)
桜御前については史実を解き明かす史料は全くないが諸伝説を統合すると概ね次のよ
うになる。桜姫は久寿二年十六歳の時から鳥羽天皇の御后である美福門院に使えやが
藤原信成の三男成範と恋仲になりやがて一女をもうけた成範は風雅の道に長け桜待中
納言と呼ばれたが、父信成の攻略によって平清盛の娘を正室として迎えねばならなか
った。自然桜姫と清盛の娘との関には、恋のさや当てが生じた。やがて、保元の乱が
起こり、桜姫の兄弟は遠國への配流となり、桜姫は悲運を嘆いたが更に「平治の乱」
後清盛の奸計にあい、また美福門院の崩御を聞いてあらゆる絆を絶つべく意を決し、
京の都を離れたのであった。
桜姫のその後の消息は明らかではないが、流浪の途次仏門に入るべく蓮華寺の僧を慕
って森迄来たが、入山を許されず、やむなく庵山の麓に小庵を結び、一族の冥福を祈
る読経三昧の生活に入り、やがてこの地に果てたと言う。享年四十四歳であった。
この桜姫が桜御前その人であるといわれ、終焉の地に「桜御前」の碑を建て、
「桜御前」の地名がつけられたことになっています。この碑が建てられたのは江戸
時代になってからと思われ、旧跡はもう少し西北方にあったかが、後に現在地に
移された、「遠江國風土記伝」には「桜御前塚」(小御所)地名とある。森町の
田舎道に「小御門小路」(コミカドコウジ)などの呼び名が残っているのは古からの名残
だろうか。
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