8/5(木)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6618491
今回は、3日(火)に男子サッカーで、日本と対戦した8世紀から15世紀までのスペインの歴史を紹介する。
目次
第1章 スペインの歴史 イスラム勢力とキリスト勢力の攻防
�.ぅ好薀犇気肇�リスト教の戦い
�▲譽灰�スタ運動について
�C麓然悗�ら見るグラナダ王国の繁栄について
第2章 男子サッカー 準決勝 第2試合 U24日本代表 対 U24スペイン代表戦レポート
第1章 スペインの歴史 イスラム勢力とキリスト勢力の攻防
�.ぅ好薀犇気肇�リスト教の戦い
写真=西暦1031年のイベリア半島の状況 掲載元 ウィキペディアより
現在スペインとポルトガルから成るイベリア半島は、10世紀にキリスト教徒とイスラム教徒が凌ぎを削った。南部にはイスラム系の後ウマイヤ朝、北西部にはキリスト教徒が建国したレオン王国が台頭した。北東部は神聖ローマ帝国領、フランス王国と接する北東部の1角はカール大帝が設置した辺境伯領である。北部のバスク地方に建国したキリスト教徒のレオン王国(西暦910年から1037年まで存在)は、ドゥエロ川を境に、後ウマイヤ朝との領土を巡る争いを続けていた。有名なバルセロナが属するスペイン辺境伯領カタルーニャ地方では、徐々に勢力を拡大し、ピレネー地方および西地中海一帯を治めることになる。後ウマイヤ朝とは、西暦756年にアブド・アッラフマーン1世によって立てられた。西暦750年にアッバース朝に滅ぼされたウマイヤ朝を受け継ぐ。初代アミール(君主の称号)のアブド・アッラフマーン1世は、シリアからベルベル人の母親の故郷モロッコを経由して、イベリア半島入りした。即位後にアッバース朝のカリフの座についたマンスールの調略を受けて反乱を起こした軍を打ち破った。反対勢力を徹底的に潰して、国内の治安を安定させる。専制主義のアブド・アッラフマーン1世に反感を抱く一部の市民は、フランク王国のカール1世(大帝)に支援を要請した。アブド・アッラフマーン1世とカール大帝軍は、西暦778年にサラゴサで一戦を交えた。カール大帝軍が優勢だったものの、フランク王国内でザクセン軍の反乱により、帰国せざるをえず、勝利宣言をする前に撤退した。劣勢だったアブド・アッラフマーン1世軍は、思わぬ事態に救われ、以降王朝は無敵の存在となった。都コルドバには、大モスク(メスキータ)を含め、後に世界遺産に認定される建築物を残した。メスキータは、キリスト教カトリックが侵攻した後、建物の構造をそのまま残し、内部に礼拝堂を設けた。イスラム教とキリスト教の信者が集う世界で例を見ないモスクとして知られている。コルドバは、トレドと共に西イスラム教の聖地として栄えた。
写真=世界遺産メスキーターの内部 掲載元ウィキペディア
後ウマイヤ朝は、長く続かなかった。アラブ系豪族やベルベル人、さらに兄弟間による統治者を巡る争いで混乱に陥った。29年間で10人のカリフが即位するほど、指導者が定まらなかったのである。王朝の混乱に乗じて、アラゴン王国とカスティーリヤ王国が乗っ取りを行う。西暦1031年に第9代カリフのシャーム3世の廃位に伴う国外追放が大臣たちによる「評議会」によって決定されてた。
ウマイヤ朝がなくなると、諸国の主がそれぞれ権力を持ち、第1次タイファと呼ばれる時代に入った。中でもセビリア王国、トレド王国、サラゴサ王国、グラナダ王国、バレンシア王国が台頭した。それぞれの王国自体は、横への繋がりが弱く、北部から侵攻するキリスト教勢力に太刀打ちできない。西暦1085年に西方イスラム圏の中心地として栄えたトレド王国が、カトリック圏のカスティーリヤ王国の侵攻を受ける。それぞれイスラム圏の諸王国の主は、危機感を悟り、当時アフリカ北部を勢力圏に置いていたマグリブのムラビート朝に救いを求めた。君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンが、スペインイスラム圏の諸王国を統一するチャンスと狙い、要請に応じて、兵を出動させる。西暦1086年10月23日に起こったサグラハス{現在スペインエストレマドゥーラ州おバダホス北東のサラカ(サグラハス)}の戦いで、ユースフ・イブン・ターシュフィーンが、カスティーリヤ王アルフォンソ6世軍を打ち破った。キリスト教勢力を、イスラム圏のアンダルシア地方から撤退させることに成功し、新たにアル=アンダルスのイスラム圏諸王国を統治した。
ムラビート朝は、スペインイスラム圏に根付かず、民衆の中に溶け込めなかった。一端イベリア半島から兵を引き上げたカトリック勢力は、ヨーロッパ大陸一帯から兵を集めて、挽回する機会をうかがっていた。イスラム圏の北アフリカでは、新たにムワビット朝が、ムーラビー朝を脅かす存在となった。ムワビット朝はベルベル人のイブン・トゥーマルト(誕生時1180年頃、1230年に亡くなる)によって創設された。彼は12世紀初頭に、東方への遊学をかねて、聖地メッカへ巡礼の旅に出た。歴史資料から詳しいルートは明らかになっていない。
イブン・トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判した。1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した。イブン・トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説く。彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた。
西暦1130年にイブン・トゥーマルトが亡くなった後、アブド・アルムーミンが後継者に就く。続く3代目のマンスールは自らをカリフの称号であるアミール・アルムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団はアルムーミンの子孫がアミール・アルムーミニーンとして後継者の地位を継承する世襲王朝へと変容する。アブド・アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした。
写真 掲載元 世界の歴史まっぷ キリキア・アルメニア王国より
ムラビート朝がイベリア半島から姿を消すと、絶対的勢力が不在ととなり、諸王国が権力を振りかざす「第2次タイファ」と呼ばれる分権的時代に入った。北アフリカの新たななイスラム勢力ムワビット朝は、先代のムラビート朝に倣い、イベリア半島征服を行う。地元のアル=アンダルスの勢力に反抗され、統制が利かない。西暦1212年7月16日にカトリック連合軍とのナバス・デ・トロサの戦いで決定的な敗北を喫し、第3次タイファと呼ばれる分裂期に再突入した。ナバス・デ・トロサの戦いの構図は、孤立したムワビット朝 対 4王国と4つの騎士団からなるキリスト一大勢力である。連合軍結成を働きかけたのは教皇インノケティウス三世とトレド大司教ロドリコ・ヒメネス・デ・ラダだった。当時カトリック諸国でも領土を巡るいがみあいが起きていた。教皇の助言を聞き入れ、カスティーリヤ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を行う。教皇の仲裁の下で、アルフォンソ8世、ナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世は同盟を確約した。連合軍とはいえ、戦力は推定5万、対してムワビット朝は推定12万の兵を従えている。戦力では明らかにムワビット朝に分がある。真っ向から挑めばムワビット朝に勝機があるのは間違いなかった。そこで策手アルフォンソ8世は、騎士団を従えて、包囲作戦に出ていた。ムワビット軍は、一気に攻め寄せるのではなく、前線部隊を交代させるべく、時には兵を引き上げて、キリスト連合軍をおびき寄せる。アルフォンソ8世軍は、ムワビットの動向を見て取り、後方から狙い撃ちをかけた。ムワビット軍の後方部隊を取り囲めば、少ない人数ながら効率よくしとめられる。結果的に失った勢力は、キリスト連合軍の約2000に対して、ムワビット軍は推定9万から10万といわれている。甚大な被害を受けたムワビット朝は、立て直すことができず、衰退の一途を辿った。
�▲譽灰�スタ運動について
写真 掲載元 ヘブライ語 VS フォークダンスより
http://folkhebr.seesaa.net/article/Kadman-8-4.html
イベリア半島には、イスラム圏から国土を取り戻すキリスト勢力のレコキスタが一気に進む。イスラム諸王国アル=アンダルスは、第3次タイファと呼ばれる分裂期に、キリスト勢力に飲み込まれる。ポルトガル王国、カスティーリヤ王国、アラゴン王国が、イベリア半島の中心勢力と化した。カスティーリヤ王国とアラゴン王国は、婚姻関係を通じて、急速に接近する。15世紀、カスティーリヤ王国は、エンリケ4世(在位1454年から1474年)の時代、後継者に娘のファナ(生存1462年から1530年)を指名していた。貴族からは実子ではないと噂が立ち、支持を得られなかった。王に対立する貴族側は、異母妹のイサベル(1451-1504)を擁立した。カスティーリヤ王国内では、ポルトガルが支援するファナ派とアラゴンが支援するイサベル派に分かれ、対立する。結果イサベル派が勝利し、(トロス=デ=ギサント協定)を結んだ。ここにて、カスティーリヤ女王イサベル1世(位1474-1504)が誕生した。イサベル1世は、王女時代の1469年にアラゴン王子のフェルナンド(1452-1516)と婚姻関係を結んでいた。アラゴンの王子は、カスティーリヤ王フェルナンド5世(在位1474-1504)としてイサベルと共同統治をする。1479年、フェルナンド5世はアラゴン王フェルナンド2世(位1479-1516)としても即位し、2人が共同君主となるカスティーリヤとアラゴンが同君連合となり、スペイン王国が誕生した。最大の任務は、西暦718年から650年余り続くレコキスタの完了である。唯一残ったイスラム勢力は、グラダナを拠点とするナスル朝である。地中海一帯の海洋権は全てスペインに握られ、経済的にも疲弊していた。1480年代になると王室の内紛も頻発し、ボアブディル王(ムハンマド12世。在位1482-92)の時代に、レコンキスタによるカスティーリヤ王国(ここではスペインを構成する一王国)の侵攻も激化した。1490年にグラナダはカスティーリヤ軍によって遂に包囲された。1492年1月2日、ボアブディル王は遂に北アフリカへの亡命を決め、アルハンブラ宮殿と王都グラナダは陥落、ナスル朝の260年の歴史に幕が下ろされた(1492。グラナダ陥落。ナスル朝滅亡)。イベリア半島のキリスト教勢力によって展開した国土の完全回復は、800年近い時を経てようやく現実となったのである(1492。レコンキスタ終了)。
写真=スペインの歴史一覧表 掲載サイト
https://yukyusekai2.web.fc2.com/rekishi/supein-rekishi10.htm#sup11
1496年、レコンキスタを完成させたカスティーリヤ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリヤ王フェルナンド5世)は、ローマ教皇によってその功績を称えられ、"カトリック両王"を授与された。イベリア半島内のイスラム教徒やユダヤ教徒はキリスト教に改宗させられた。信仰を拒むと、国外追放処分を受ける。最後にイベリア半島のイスラム系住民の聖地であったアルハンブラ宮殿のモスクは、教会へ修築され、カトリックの宮殿と変わっていった。
参考文献 グラナダ陥落
http://mh.rgr.jp/memo/hi0160.htm
�C麓然悗�ら見るグラナダ王国の繁栄について
グラナダがなぜ、イスラム教国家として最後まで生き残ったのか、複雑な地形によって、北部のキリスト教軍の侵入を阻んだからである。その理由は、地殻変動にあった。
スペイン南部に生じた一本の線、グアダルキビル断層が、地形の成り立ちの鍵を握る。断層を堺に、地層が異なっている。断層の南側は、2000万年前にアフリカ大陸の圧迫を受けて隆起した地層である。一方断層の北側は、古い大陸型の地層だ。2つの地層の境目、グアダルキビル断層のやや北に位置するシエラ・モレナ山脈に位置するデスペニャペロスは、ゴツゴツした岩場が広がる。断層の境目に立つと、渓谷全体を通して高低差を感じる。低木がまばらに生える深さ150mの崖が連なっていた。
写真=デスペニャペロス渓谷 掲載元 英語版wikipedia
2つの地層の境目となる断層は、文明の発展に大きなかかわりを持ったという。なぜなら、断層を境に、人種が異なるからである。紀元前500年ごろ、スペインとポルトガルに跨るイベリア半島は、東部地域の南北にかけてイベリア人が住み着いていた。中部から西部一体をケルト人が支配していた。2つの民族の分布図を重ねると、グアダルキビル断層を境界にしていたことが分かる。当時勢力を誇ったケルト人は、グアダルキビル断層の南部に踏み込めなかった。イベリア人は、断層の南部から地中海に沿って、北東部まで広がっていた。中世の頃にも断層によって、人々の暮らしが変っていた。紀元後7世紀、中世ヨーロッパでは、キリスト教を信仰する人々が辺り一体に広がっていた。イベリア半島もほぼキリスト教国家が支配していたのである。8世紀には、アフリカ北部からジブラルタル海峡を伝って、イスラム国家が侵攻した。イベリア半島一体は、最北部の一部地域を除き、イスラム教徒によって飲み込まれた。徐々にキリスト経徒が盛り返し、イスラム教国家を滅ぼした。レコンキスタ(国土回復運動)により、イスラム教徒から領土を取り返し、南部のグラナダを除き、全て支配した。イスラム教国家グラナダは、奇しくもグアダルキビル断層の南部にある。一部断層の南部までキリスト教の侵攻を許したとはいえ、イスラム教国家は辛うじて生き残った。
長くイスラム王国の都として栄えたグラナダの小高い丘には、世界遺産に登録されたアルハンブラ宮殿がある。古い石造りの建築物の天井には、水晶がはめ込まれていた。
写真=夕暮れ時のアルハンブラ宮殿の外観 掲載元 4Travelより
https://4travel.jp/magazine/basicarea/000257
イスラム王宮の中で最も豪華絢爛で、複雑なつくりをしていると、世界遺産の委員会から評価された。宮殿の中心にある広場には、噴水が湧き出している。当時宮殿の庭師は、地下水を利用して、植物の種を植え、丁寧に管理していた。茶色一色の煉瓦脇に、青や赤、黄色などの花々が咲きだした。宮殿の地下水は、シエラネバダ山脈に端を発する。長さ30kmに渡るレンガで作った水路を建設し、途絶えることなく水が供給された。王国の繁栄には、作物を育てる水が欠かせない。およそ250年もの間支配した。
現在のスペインとポルトガルを含むイベリア半島は、北からのキリスト教徒、南からのイスラム勢力との激しい戦いが繰り広げられてきた。1492年にグラナダ陥落により、イスラム勢力は一掃され、やがてポルトガルとスペインは、西洋随一の海洋王国を築きあげる。地理的に海に面しているうえに、温暖な気候にも恵まれ、港町として栄えた。1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見により、新大陸へ進出し、植民地政策に乗り出し、金や銀の利権を手に入れる。およそ800年に渡るレコキスタ完了後、世界随一の大国へとのし上がる。時間にルーズで、自由奔放に生きているようなイメージが強い現生のスペイン人の原点は、500年以上前に大繁栄を誇った帝国にあった。
第2章 男子サッカー 準決勝 第2試合 U24日本代表 対 U24スペイン代表戦レポート
8月3日(火)午後8時、埼玉サッカースタジアムにて、準決勝 第2試合 日本 対 スペイン戦がキックオフする。両者は7月17日に、大会直前壮行試合を行い、1対1で引き分けた。スペインは先日のEURO2020の登録メンバーから6人が、オリンピックにエントリーしている。
スタメン表 掲載元 読売オンライン 東京オリンピック2020 8月4日朝5時付け
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210804-OYT1T50128/
本文リンク無記載 写真 掲載元 日刊スポーツ 東京2020
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/soccer/news/202108020001049.html{撮影者:河野匠}
前半は両チーム得点が入らず、ハーフタイムを迎えた。右エンドに日本、左エンドにスペインが入り、日本ボールで後半45分が始まった。6分、センターバックの吉田が、センターバックの2枚(パウ・トーレス、エリック・ガルシア)の間を狙ってロングボールを送った。走りながら旗手が胸でトラップし、相手を引きつけて、ワントップの林にボールを預ける。林は右足でシュートした。コースが大きくはずれ、右ゴールラインを超えていった。
写真=シュートを外し頭を抱える林
チャンスを演出した吉田は、高いスペインディフェンスラインの裏を突き、ピンポイントで久保にロングパスを出した。意表を突かれたスペインは、パスを細かく回しながら、チャンスをうかがう。10分、左サイドバックのククレジャが出したクロスボールを、エリア内で1996年産まれのメリーノがトラップした。フィニッシュの阻止を試みるセンターバックの1988年産まれの吉田が、ボールに足を伸ばす。メリーノが、吉田の足に引っかかり、倒れた。主審はPKの判定を下すと共に、キャプテンマークを巻く吉田にイエローカードを出す。
写真=一連の吉田のタックルシーン 掲載元 サンスポ 8月4日 午前5時2分の記事
https://www.sanspo.com/article/20210804-3U5GFOAWPNNCHF7WWYMRTJVKRI/?outputType=theme_tokyo2020
日本のメンバーは、主審に詰め寄り、ノーファウルをアピールする。勝負を決定付ける重要な判定は、ビデオジャッジが認められている。主審は、ビデオ映像を確認すると、PK判定と共に、吉田のイエローカードも取り消した。
写真
=ビデオ映像をチェックする主審
スペインは、既に3枚の交代カードを使い、勝負に出ていた。対して日本は、選手交代をせずに、4バックを綺麗にそろえて、守備がために入る。19分、ついに森保監督は2枚のカードを切った。ワントップの林に代えて上田を、右サイドバックの旗手の代わりに相馬を投入した。献身的な守備をした林と旗手を下げて、テクニックのある上田とドリブラーの相馬をピッチに送ったことにより、必然的に攻めの姿勢が強くなる。1点を争う拮抗した展開が続く。23分、メリーノに代わって投入されたソレーユがドリブルでエリア内の左サイドに入ると、吉田がコースを切る。ソレーユの左足でのシュートを、吉田は足に当てて、コーナーキックに逃れた。吉田は、PK判定を受けた経験から、より慎重さを増す。ファウルの判定を恐れて、体の接触を避けて、シュートブロックに入っていた。
スペインは、2枚のセンターバックをハーフウェー・ライン付近に置く。左サイドバックのククレジャのところを、1990年産まれの31歳酒井がカバーする。30分、ペドリが蹴ったボールが、避けようとした日本の田中に当たって、エリア内にこぼれる。板倉を振り切ったメリーノが即座にボールに反応。GK谷は急いで飛び出した。メリーノの右足でのシュートを、滑り込みながら谷は膝でセーブした。谷は、即座にボールに飛び込んだことにより、メリーノのシュートを阻止した。彼は、反射神経と共に判断力に優れ、大会4試合で1失点に抑えている。
写真=セーブする谷
劣勢の日本は32分、左サイドで久保が、キャプテンマークを巻くバレージョを前にしながらエリアに入り、左足を振りぬいた。ライナー性のボールを、GKシモンが両手を伸ばして防いだ。
スペインのルイス・デ・ラ・フエンテ監督は37分、4枚目のカードを切った。2002年11月産まれの18歳ペドリに代えて、故障により初戦以降体を休めていた1996年産まれの2018年ロシアWカップメンバーのアセンシオを投入した。42分、ラファミールが右サイドから抜け出すと、ニアポストをカバーしたGK谷が対応する。ラファミールがシュートしたボールは、腰を落とした谷の膝に当たって、ゴールラインを割った。スペインは、90分での決着をめざし、攻勢に転じる。日本は、パスワークに優れるスペインを前に防戦一方になった。44分、最終ラインからのロングボールを、アセンシオが右サイドで受け止め、味方の上がりを待つため時間を作る。アセンシオは、エリア内の左サイドに入ったメリーノにクロスを送る。メリーノは、ヘディングで落とした。オヤルサバルが若干後ろに入ったボールを左足でシュートする。球の勢いがなく、重心を左に倒した谷がキャッチした。交代で入ったアセンシオは、キープ力があり、数的不利の状況ながら、間合いを取り、オヤルサバルとミリーノの上がりを待った。彼は、途中からベンチに下がったEURO2020の代表メンバー23歳のダニオルモと異なるタイプのアタッカーである。反撃に出た日本は48分、堂安が一本のパスに反応し、相手に体を入れられても持ちこたえる。最後は服を引っ張ったスピメンディーのイエローカードを誘うファウルを取った。堂安は、身長172cmながら、ボディーコンタクトに強く、後半頭にも激しいチャージを受けながらも持ちこたえていた。
写真=堂安がファウルを受けるシーン
後半45分も得点が入らず、勝負は延長戦にもつれ込んだ。日本は、守備に隙がなく、イエローカードを1枚も受けずに、1対1の攻防で競り勝つ。対するスペインは、センターバック2枚でボールを落ち着かせ、ショートパスを繋ぎながら、時に一本のロングボールでアクセントをつける。球際の攻防では、互角だった。延長前半頭から森保監督は、トップ下の久保と右サイドの堂安を下げて、前田と三次を投入した。延長前半15分でもスコアは動かず、後半残り15分を迎える。右エンドに日本、左エンドにスペインが入り、延長後半15分が始まった。早速延長後半4分、相馬の仕掛けにより、バジェボのこの日チーム4枚目となるイエローカードを誘うファウルを受けた。日本のイエローカードは、酒井の1枚のみにとどまっている。延長後半10分、スペインは、右サイドをオヤルサバルが仕掛け、エリア内でアセンシオにボールを預ける。前から板倉、後ろから遠藤が詰めていく。アセンシオは、腰を捻りながら左足でシュートを打った。微妙にカーブがかかったボールは、横飛びした谷の右手の指先を越えて、左サイドネットに突き刺さった。1対0.屈強なアセンシオは、キープ力と共に、フィニッシュの精度が高く、ポスト際のサイドネットにきっちりと決めた。GK谷のポジショニングは悪くなかったとはいえ、シュートコースが良かった分、ボールに手が届かなかった。
写真=先制のゴールシーン
写真=ボールの軌道までとらえる サンスポ 2021年8月4日0時17分記事より
https://www.sanspo.com/article/20210804-XHDRKD6GSFOYVBLEWAD3UXPULU/?outputType=amp
写真 版元{時事通信社}
喜びのあまりユニフォームを脱いだアセンシオは、チーム5枚目のイエローカードを受けた。残り時間、スペインはバックパスを交えながら、時間を使っていく。日本は、センターバックの吉田を前線に上げて、クロスボール攻めに備える。延長後半ロスタイムには、GK谷までゴール前に上がり、コーナーキックから得点を狙った。結果的に得点を奪えず、試合終了のホイッスルが鳴った。1対0で日本を下したスペインが、決勝進出を決めた。日本は、延長前半からスピードのある前田と三次を投入して、打開を図った。ゴール前の攻防において、センターバックのエリック・ガルシアとバウ・トーレスに分があり、GKシモンを脅かすチャンスを作れなかった。対照的にスペインは、鮮やかなパス回しをする展開から、キープ力のあるアセンシオの個人技が加わり、唯一の得点につなげた。組織力の日本に対し、個人技のスペインが、勝利したゲームだった。
ログインしてコメントを確認・投稿する