山本家の菩提寺洞雲寺での話。
「山本庄七の家は、代々庄屋を勤めた家柄でしたが、助治の代に至り、三度も火災に遭い
妻も屋敷も飼馬も失って落胆。一子石松を連れて遠州へ落ち延び、やがて再起。何年か後
のは帰郷へ舞い戻り、後妻を娶り家の復興に努めそして、左与吉とその妹を設けた。」と
いう話は、石松の生母の実兄の稲吉庄衛門の筋である、峯田通俊氏(愛知県南設楽郡)か
ら後日伺った話である。山本家の墓地内にポツンと置かれた自然石が石松の墓だという。
山本家の屋敷跡地は同地堀切平に残っている。
筆者が判断するには、石松の生誕地は諸説があって、わが遠州森町も有力候補ではあるが
再三の実地踏査をした結果、三州八名郡八名村に軍配を上げざるをえない。
いつから森の石松になったのか?
東海任侠史の原典といわれる「東海遊侠伝」明治17年刊に登場するのは、三州の産石松
であって「森の石松」ではない。森の石松が登場したのは、前記の著書から、脚色された
講釈師「松廼家太琉あるいは、神田伯山あたりの講談を嚆矢とするのではなかろうか。
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