■死の工場
ジャンルとしては、『シンドラーのリスト』のように「強制収容所もの」に分類されるが、主人公を強制収容所内の犠牲者ではなく、囚人の中での最上位カーストたる「ゾンダーコマンド」の一員に設定している。このためにかえって収容所を俯瞰できるようになっており、観客と主人公とが視点を共有することによって酷薄無比の「死の工場」の全容が明らかとなるという仕掛けだ。
ここで私事を挟ませていただく。筆者が派遣工だったころ、とある疑問を抱えながら就労していた。
「どこの工場もノルマに追い立てられ、生産への狂熱にうかされながら、システマティックにフル稼働していたものだが、このような“生産への狂熱”が、“破壊への狂熱”へと転化することはないのか?生産工場があるのならば、どこかに“破壊工場”があってもおかしくはないのではないか?」
との問いであった。このような僕の問いに対して冷厳な答えを提示したのが、アウシュビッツとこの映画であった。
■ゾンダーコマンドとは?
ゾンダーコマンドとは、もともとは「特殊部隊」を意味するドイツ語の単語だ。収容所内の多くの労働大隊の中でも最上位カーストに位置する労働部隊であったことから、「特殊(労働)部隊」と、名づけられたのだろう。
彼らの仕事は、ガス殺を決められた囚人を「シャワーの後には、スープが待っているから」と、安心させ、なだめすかしつつガス室へと送り込み、死んだ囚人の衣服や貴金属をかきあつめてドイツ人の看守へと提出すること、ガス室の清掃(汚物や血液を、悪臭の中でとりのぞくこととなる)、粉砕された遺骨や遺灰を付近の河川へと放り込むことなどである。いずれも重労働であり、感受性や想像力を「置き去りにしないと」できない仕事である。 賃金はなく、アルコールや食料の面で優遇されたうえでの数か月の命が——口封じのために数か月単位で「入れ替え」が行われる——、彼らの報酬であった。したがって、1年以上にわたって命を永らえたゾンダーコマンドは殆どいなかった…。
ちなみに、彼らのような囚人が登場した理由も、残酷なものであった。…というのも、彼らの「前任者」たる親衛隊の隊員からなる看守たち(平和な時代の看守とは異なり、囚人に対して酷薄に接することが彼らの仕事だ…)ですら、その仕事の残酷さゆえにPTSD等の精神疾患にかかって「使い物」にならなくなった…。それゆえに、囚人によるゾンダーコマンドの出番となったのである。
■主人公のサウルがしようとしたこと
サウルは、ユダヤ系のハンガリー人だ。彼の娑婆における職業は作品中においては明らかにされていないが、おそらく農夫か職人であったと思われる。がっしりした体躯に比して、彼の顔色は仕事の中身のせいか?土気色である。「こわもて」が定石という刑務所同然の環境下にありながら、サウルの面倒を見る囚人仲間もおり、囚人の顔役からのおぼえも悪くはない。
そのような日々の中、サウルはガス室にて死にかけている少年を見つける。毒ガスでは死にきれなかったのだ…。残酷な日常に「慣れていた」囚人も少年を気の毒に思ったが、サウルはこの少年を「自分の息子だ!」と、云いだした。そして、ユダヤの礼式にのっとって埋葬したいと考えた。
自らの死んだ近親者に、人並みの葬式を出してやったうえで「あの世」へと送り出すことは、平和の世においては当然のことである。しかし、看守はもとより、囚人すらも、強制収容所と戦争の酷薄さに「呑まれて」おり、他の囚人仲間はサウルに対して「お前には息子はいなかったろ!それより、叛乱と脱出を成功させることを考えろ!“入れ替え”が近いんだよ!」と、サウルの人並みの願いを理解しようとすらしない。それでもサウルは収容所の中で、あの手この手で「息子」を埋葬しようとする。
もし、あなたがこの作品を見て、「息子の埋葬よりも、生き延びるための叛乱の方が大事でしょ」と、考え始めたのなら一大事だ!なぜならば、あなたも収容所の雰囲気に(映画を通してではあれ、)呑まれてしまうかもしれないからだ。物語の結末に関しては作品に譲るが、僅かの人間らしさも許されない強制収容所の雰囲気が、人間らしさを捨てようとしなかったサウルの視座を通して観客にも判る仕掛けとなっている。
ともあれ、われらの工場が破壊にではなく、今後も生産に用いられ続けることを祈り、筆を置くこととする。
※『サウルの息子』公式サイト:
http://www.finefilms.co.jp/saul/
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