mixiユーザー(id:1023125)

2019年05月03日10:10

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哲学する!(?)


GWといってもヒマで。

↓ちょっとオモシロかったので。

ソクラテスの「無知の知」が科学研究で証明される
https://gigazine.net/news/20190501-links-between-humility-knowledge/

ソクラテスは
「自らの無知を自覚することが真の認識に至る道」と「無知の知」を
説きましたが「知識が多い人程、自分の知識の限界を認識、間違いの
指摘や他人のアイデアを認めやすい」という事が研究で示されました。

アメリカ、
マンカソ氏らは「intellectual humility(知的謙遜)」という概念に
ついて研究を行いました。知的謙遜とは
「間違いは起こるものだ」
「自分の知識は限られている」
ということを冷静かつオープンに受け入れられること。知的謙遜の対極に
あるのが
「intellectual overconfidence(知的過信/自信過剰)」
という概念。自分の考えに自信を持つことは基本的にはいいことですが、
過剰な自信は問題があると捉えられています。

調査の為、
マンカソ氏ら研究チームは1200人の被験者に対し「知的謙遜と学習の間に
あるさまざまな関係」を調べる5つの実験を行いました。この結果、まず、
知的謙虚を持つ人は一般知識が多いということが判明。

「知的謙虚と一般知識の多さの間につながりがあることは、知的謙虚が
『人の一般知識の多さを正確に測る能力』と関係する、との研究結果に
よって説明がつきます。つまり、自分が知らない事を知ること(そして
『知らない』と進んで認める事!)は新しい知識への第一歩なのです」と
マンカソ氏は記しています。

一方、
知的謙虚でない人は自分の認知能力を過大評価する傾向があるものの、
知的謙虚さの度合いで、認知テストの結果が影響を受ける訳ではない事
も示されました。研究者が知的謙虚さと認知能力の間に関連性があると
予測していたため、これは「驚くべき結果」だったそうです。

しかし、
知的謙虚には問題もある事も、マンカソ氏らの研究で示されています。
理由はわかりませんが、知的謙虚さの強さがGPAの低さと関連性がある
ことが示されているのです。また、知的謙虚さを持つ被験者は自分の
認知能力を過小評価することも示されています。

「人は偏見のない人を受け入れやすい傾向にありますが、一方で自分の
信念を確信しない人を『弱い』と考えたり、すぐに考え方を変える人を
『操作的』『安定していない』と考えることがある可能性もあります」
「このような社会の見方が、自分の間違いを認めづらくしているかも
しれません。『自分の考えには自信を持つべき』と考える人は、考えを
変えることを恐れるかもしれません」とマンカソ氏は語り、知的謙虚の
理解を深めることが、社会での人のあり方に影響を及ぼすと考えています。

今回の研究結果から、
少なくとも「知的謙虚は社会に幅広い影響を及ぼしている」という事は
示されたといえます。一方で研究者は、知的過信が知識・認知・新しい
ことを学習する能力にどう影響するかを理解する為には、更なる研究が
必要だとしています。

「知的謙虚は数多くの面で、公共財に寄与しています」
「知的謙虚は人々の認識に対する『意見』の枠を越え、社会的態度・
社会的行動の示唆を含みます。この研究は、意見が不一致の場合でも、
人に対して礼儀正しく、慈悲深く振る舞う助けとなる可能性があります」
とマンカソ氏は述べています。
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<哲学?かったるいっしょ>

小生は、
基本的に「哲学」は好きではない。
「思索」は非常に多く行う。ので、その意味なら「哲学っぽい」と
称する事もできるが、小生の思索は「ブッディズムのそれ」もっと
言うなら顕/密であり、つまりは瞑想である。
「何が違うのか!」ってか?

とっても、大きく、違う。

哲学の思索
 起)何か思索しようという動機
 因)己の思索から出発する
 法)すべては言語=言葉によって成される
 果)思索し尽くした結果(それも言語)

ブッディズムの思索
 起)何か思索しようという動機
 因)己の思索から出発する
 法)言葉は初期の導入のみ
   メインは瞑想=言葉以外=言葉以前
 果)瞑想し尽くした結果(それを言語化に戻す)

ブッディズムの思索は必ず瞑想=言葉以前に依拠する。
この経緯を経ない思索はブッディズムのソレではない。
それは単に哲学である。だから哲学とブッディズムは
同じ思索と言っても内実がまったく異なっている。
これらの違いは、ブッディズムの講和と哲学のソレを
比較すれば、一目瞭然だ。

ブッディズムの
教えの多くは比喩である。お題とは、まったくかけ離れた
寓話や喩え話しを、唐突に語りだす。聞く側は何の事だか
解らない(禅問答)。ブッディズムは言語=言葉で伝える
事は不可能だと知っているので、初めから言語での説明を
諦めている。だから喩え話しなどで、言葉を「真理を説明
する為のギミック」として使う。

哲学の
教えのすべては言語の羅列である。徹頭徹尾、言葉が並ぶ。
言葉を使った思索が続く。だから、哲学の説明は非常に難解、
というより、かったるい。小生にとって哲学は、
・「屁理屈の連続」
・「ああ言えば、こう言う」
言葉など、どうにでも言えるもので、正しくない事を正しいと
言う事など、しかも、論破されずに言う事など簡単である。
しかし、結果は「単に自己矛盾の連続」に帰結するだけであり、
ソレが左翼思想に起こっている事である。
この「かったるさ」に比べれば、
ブッディズムの禅問答は内容的には難解だが、話し自体は、
簡単というよりは、もはやチープで、文章レベルとして小学生
にでも理解できるものである。

だから、
ソクラテスも興味は無かったが、まあ、こういうソースが
あったので、作法としてウィキってみた。
で、ソクラテスへの(それこそ文字通り)「己の無知さ」を
痛感し、ソクラテスの認識を改めた。
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<ソクラテスは瞑想者だ>

結論から言うと、
ソクラテスは哲学よりは、ブッディズムに近いと思う。
彼がブッディズムの方法論を知っていたら「我が意を得たり」
哲学など、さっさと捨てていただろう。

まず、
彼は己の思索の根源に、常に、どんな時も「神(神、という言葉で
象徴するモノ)」を想定している。

「無知の知」は、
「己を超える何がしか」の想定なしには不可能だ。神があってこそ、
己がどんなに思索しても、神以上に知る事ができない。最初にまず、
この感覚から思索が出発している。
これは
「悪しき自己肥大/慢心/増長」を抑制するには十分過ぎる「装置」
で「仮に、慢心/増長したいと思っても、できなかった」のである。
そういう
彼だから「徳」を重視した。この帰結は、とても自然で、とても重要だ。
だって「徳」とは、己の努力で得られるモノでなく、ひとえに「他者
からの評価」でしか無いのだから・・・。更に言うなら、その他者とは
「己を超える何がしか」である。

★ 「徳」は「己を超える何がしか」が与える ★

つまり「徳」は「ギフト」なのである。

ならば、「徳」を重視した彼が、自己慢心で満足するハズもない、
というか(したくても)できない。
・周囲の自己慢心・・・程度でイキがっている輩がアホにしか
 見えない事は道理である。
・世間では著名な見識者に「無知の知」をぶつけ、知識人の多くを
 不愉快にさせたのも道理である。
・結果、社会的に排除されるのも道理である。

★ ホントの事を言うと、社会(共同体)から排除される ★

念の為、因果をはき違えてはならない。

★ 社会(共同体)から排除される、だから己が正しい ★

と「単に、反社会的な事をやってるだけの己を正当化するバカ」
になるべきではない。「〜だから己が正しい」とは、ソクラテスの
「無知の知」が嫌悪する態度だ。

今、
「哲学としてのソクラテス」を語る事は「チョベリグ〜」と言う程に
古くてダサい。だが、彼の「無知の知」は、流行ですたれる程度の
モノではない。やはり、人類普遍の教えであり、あえて、

★ 今だからこそ、ソクラテスの無知の知を再評価せよ! ★

と、言いたくなるのである。
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<むずかしい事をやるべきではない>

戻って

研究者は、ソクラテスの無知の知を、
 ・「知的謙虚/知的謙遜」
 ・「知的過信/自信過剰」
とのワードで再定義するが凡庸である(ソクラテスには敵わない)。
「謙虚」も「過信」も「知/無知」以前、相当な語意=イメージを
持っているので、それらワードで修飾するだけで「知/無知」の命題
が既に他の次元に歪曲されてしまっている。

そもそも!
「己を超える何がしか」を持たぬ者に「謙虚」を求める事や「過信」
を戒める事が不可能である、という点が抜け落ちている。

「己を超える何がしか」を想定する者は、言わずとも「謙虚」であり
「過信」ができない。そして賢い。

念の為、述べるが、小生は「神を信じろ!」と言いたいのではない。
・空を見上げ「己を超える何がしか」が
・(ココが重要だが)実感として、当然の事として想定できるか
という事である。ソレを神(イエス/アッラー/ブッダ)と言おうが
大自然と言おうが、どうでもよい。
小生は、周囲の凡人の誤解を減らす為「森羅万象」と表現するが。

そして、
この「己を超える何がしか」を持ち得て暮らす人と、そうでない人は
生涯において、致命的に違った人生を送る事になる。

「己を超える何がしか」のうちに暮らす人は、何をやっても問題ない。
問題ない、とは「悩みや不幸がない」という事ではない。
「悩みや不幸」は普通にあって、尚、問題ない、という事だ。

「己を超える何がしか」の外で暮らす人は、問題ばかりの生涯を生きる。
億万長者になって、社長になって、病気もなく健康に長生きしても、
それらの背中には常に問題=不幸が張り付いている。

「なぜだ?」ってか?
そんな簡単な事を聞きなさるな。

・生まれてから逝くまで、
・ヒトは常に、ずっと、どんな時も「己を超える何がしか」
 のうちにしかおらず、
・「己を超える何がしか」の外で生きる事など不可能

だからである。
不可能な事をやろうと思えば、すべて失敗するのは道理でしかない。




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