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2018年05月02日12:32

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hideと真由子さんの話。

■X JAPAN・hide没後20年 難病少女との秘話「約束のチーズケーキ」 YOSHIKIが引き継いだ2人の絆
(AERA dot. - 05月02日 10:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=5094939




 1998年にX JAPANのギタリストhideが突然、この世を去ってから5月2日で20年となった。鮮やかな赤髪とイエローハートのギターで世界中を魅了した。hideの軌跡をたどるとき、一人の少女が浮かび上がる。難病であるGM1ガングリオシドーシスと闘っていた貴志真由子さんだ。世界で23例目の難病で、医師からは20歳まで生きるのは難しいと言われていた。闘病最中の95年、真由子さんは難病の子どもたちの夢を叶える団体「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」の支援で「憧れの人であるhideと会う」という夢を叶えた。

 その後も2人の交流は続き、hideが亡くなった後もhideの仲間や関係者と密な時間を過ごしてきた。hideが亡くなった11年後、真由子さんも旅立った。そんな2人の息遣いを今も感じる場所が和歌山県にある。真由子さんの両親が経営する「レモネードカフェ」だ。1階はカフェスペース、2階はライブハウスという作りになっており、店内にはいたるところにhide関連のポスターやグッズが並べられている。母親である和子さんに話を聞いた。

【写真特集】現在のレモネードカフェ店内の様子や飾られたギター、約束のチーズケーキなどはこちら

* * *
――真由子さんはいつからhideさんを好きに?

 小学5年生で入院して、入院中に上の娘が持っているCDを聴いて好きになりました。入院中もずっとCDを聴いていて、土日に外泊したときもずっと部屋で映像を見ていました。飛び抜けてX JAPANとhideさんが好きで、それ以外はhideさんが良いと言ったアーティストのCDを聴いていましたね。

――hideさんとお会いするきっかけは?

「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」という「3歳から18歳までの難病の子どもたちの夢を叶える」というボランティア団体があるんです。今の西洋医学では治療が難しいと言われていたので、「それなら何か一つ夢を叶えてあげたい」と思って電話をかけました。そこから話が進んで、お会いできるということに。1995年9月くらいに電話をして、12月31日にたまたまX JAPANの東京ドームのライブチケットを申し込んでいたので、それを伝えると「じゃあそのときに会いましょう」と。

――hideさんとどんなお話をされたんですか。


「2月に入院するからお手紙ください」と伝えると「出すよ、友達だからね」って言ってくださって。会えると決まってから2カ月かけて、不自由な手でマフラーを編んでいました。それをhideさんに渡したら、その場で巻いてくれたんです。

――憧れの人がその場で!

 そのときは15分くらい報道の方も同席していたんですが、その後に「打ち上げに行きましょう」って言ってくださって。そこからずっとhideさんと交流が始まって、メンバーにも「ダチの真由子」と紹介してくれて。

――「友達」って紹介してくれるなんて。最初の15分で「じゃあね」で終わっていても良かったわけじゃないですか。

 そうなんです。最初は「これで最後だろうな」って思っていて。でもそこから交流がずっと続いていて。

――嬉しいですね。

 そうなんです。そのときに渡したマフラーはその後も使ってくれていました。hideさんのお母さんが「いつも同じような格好をしているから、すごく重宝しているんですよ」って言ってくださって。アメリカへ行くときも必ずスーツケースの中に入れるんですって。で、荷物が多くなったときはマネージャーの方が一度マフラーを取り出すんですけど、「これはダメ!」って必ず持っていくと伺って。hideさんが亡くなった後、そのマフラーはhideさんの形見として返していただいて手元にあります。

――そうした関係はどれぐらい続いたのですか?

 出会ってからhideさんが亡くなるまで2年半なんです。でも、その間の思い出がすごく濃かったんだなと思います。真由子が亡くなった後もhideさんの仲間の方が2階でライブをしてくださったり、色紙に「真由子、来たよ」って書いてくださったり。でも、それは「尊敬しているhideさんが可愛がっていた真由子だから」っていうのがあると思います。真由子自身にも魅力を感じてくださっているんでしょうけど、hideさんの素晴らしさが大きいと思います。

――どちらも素敵だったからこそですね。hideさんとの思い出はありますか。


 12月31日に初めて会って、1月には手紙が届きました。「ロスに行くけれど、真由子とドームで会えたおかげで忘れていたことを思い出させてくれてありがとう」という内容でした。3月4日が誕生日なんですけど、入院していたんです。そのとき、hideさんは海外にいたんですけど、帰国予定を1日早めて病院にお見舞いにきてくれました。

――hideさんはどんな方でしたか?

 気遣いのできる人でした。最初に出会ったとき、打ち上げに行くまで控室で待っていたら「真由子、喉渇いてない?」って聞いてくれて。部屋の隅にクーラーボックスが置いてあったんですけど、hideさんくらいのビッグアーティストだと、スタッフさんにお願いすることも全然おかしくないじゃないですか。でも、全部自分でするんです。烏龍茶を出して、プルタブを開けて、ストローをさして、「はい、真由子」って。自分のゲストに関することは自分でする、というか。スタッフは音楽を作りに来ているから、他の仕事はさせないというスタンスだったのです。

――優しい方だったんですね。

 他にもあって、騒ぎになってしまうからhideさんがお見舞い来てくれていることは主治医の先生と看護師さん以外には伏せていたんです。でもあるとき、一人の男の子が退院後すぐに再入院になってすごく落ち込んでいたんです。それを見た看護師さんが「明日まゆちゃんのところにhideさんが来るから、サイン書いてもらえたらね」って励ましたんですって。そうしたら、それが密かに広まってしまって。全員が色紙を持って、面会室の外に行列ができたんです。12〜3人いたんですけど、事情を伝えると全員を一人ずつ面会室に入れて、2ショットで写真を撮って、全員にサインを書いてあげたんです。4時間ほどいてくださって。

――当時、めちゃくちゃ忙しかったのに。

 そうなんです。だけど、周りの子たちもすごく喜んでいました。真由子が危篤になった日の朝に「もうダメかも」とhideさんに電話で話していたんです。「せめてもう一度、電話ででも声を聞かせてもらえたら」と伝えたら、すぐに駆けつけてくれてました。

――その時は東京にいらして?


 2時間くらいかけてきてくれました。無菌室の入り口までhideさんを見送りに行ったら、hideさんのご両親まで来てくださっていて。思わず泣きついてしまいました。

――hideさんと真由子さんだけの関係じゃなくて、家族同士でのお付き合いになっていたんですね。

 はい、今だに交流はあります。

――お店の看板メニュー「約束のチーズケーキ」はどんな由来が?

 親の気持ちとか真由子の容態とかを書くノートがあって、その1ページ目にhideさんがメッセージを書いてくれたんです。チーズケーキが好きというのをどこかで知ったみたいで「チーズになるくらいすごいチーズケーキを食べような」ってメッセージを残してくれたんです。でも、真由子の身体がチーズケーキを食べられるようになる前にhideさんが亡くなってしまったので、2人で食べられなかったんです。店を始めるときは「好きだから」とチーズケーキを出していたんです。その後、真由子が亡くなったときに「やっとhideちゃんとチーズケーキ食べられるね」って棺にチーズケーキをどっさり入れたんです。その話を聞いた方が「その物語をちゃんと名前にしましょうよ」って言ってくださって、「約束のチーズケーキ」というのが浮かんだんです。

――素敵なエピソードですね。

 マフラーを巻いてくださったことと、危篤のときに駆けつけてくださったこと……。他にもいっぱいあります。hideさんと最後にお会いしたのがX JAPANのラストライブの後、事務所の打ち上げパーティーに招待してもらったんです。そのとき、移植して間もなかったので生ものは食べられませんでした。hideさんは「真由子は火の通ったものしか食べられないよね」って火の通った料理をとって「はい、これ真由子の」って渡してくれて。その後、私と旦那と上の娘には「なんでもオッケーだよね」って料理をとってくれたんです。私たちが遠慮してあまり食べられないだろうという気遣いからだと思います。人を喜ばせるということが好きみたいで、全部自分でしてくれる。帰りも私たちが先に帰るんですけど、車まで見送りに来てくださったり。

 ファンの人たちがお店に来てくれたときはこういう話をたくさん話すんです。「あなたたちの好きなhideちゃんはこんなにも素晴らしい人なんだよ」って伝えたい。


■「金魚を飼い始めました」hideを癒やしたメール

――本当にhideさんは素敵な方だったんですね。

 でも、X JAPANやhideさんの周りにいる方はみんなそうなんです。2015年に真由子の7回忌があったとき、お店で何かできないかなと話したら、ここの2階でよくライブをしてくれているGEORGEさん(我孫子神音会、LADIESROOM)が「声をかけたらみんな来てくれるよ。和歌山だとスケジュールが合わないかもしれないから、千葉のライブハウスでやろう」って言ってくださって、2daysもやったんです。PATAさんは2日とも来てくださったんですよ。YOSHIKIさんは予定があったからビデオメッセージをくださって。GLAYのTAKUROさんもビデオメッセージをくださって。LUNA SEAのJさん、SUGIZOさん、RYUICHIさんも出演してくださりました。他にも本当にたくさんの方が来てくださったんです。

 葬儀のときにも、PATAさんやI.N.Aさんも来てくださって。hideさんの事務所の人に亡くなったことを伝えたら、東京の事務所を閉めて全員で来てくださったんです。それで、「真由子ちゃんはもう一員だから皆に知らせます」と音楽業界にFAXを流してくださったんです。そうすると、色んなところからお花が届いて、80くらいかな。びっくりしました。そんなにまでしてくださるのかと。

――「羨ましいな」とやっかむ人もいたのでは?

 メイク・ア・ウィッシュでhideさんと会ったのがテレビで流れたとき、「もしかすると嫌な手紙があるかもしれないから」とテレビ局で中身を確認してくださっていたんです。でも、そういった手紙がまったくなかったのでテレビ局の方が「もう直接でも大丈夫かな」と封を切らずに送ってきてくださるようになりました。その後も嫌な思いをするものは一回もなかったんです。

――すごい!あんなにたくさんのファンの方がいらっしゃるのに。

 そうなんです。むしろ、「登校拒否だったけれど、真由子ちゃんが頑張っているのを見て学校に行き始めた」と言ってくださった方もいて。

――真由子さんに背中を押されたんですね。

 何度かそういう声はいただきましたね。それと、真由子は絶対につらいって言わなかったんです。看護師さんが一度「しんどいとかつらいとかなんで言わないの」って聞いたことがあったんです。すると、「私がつらいって言うと、それを聞いたお母さんがもっとつらいでしょ」って…。

――hideさんも気遣いの人ですけど、真由子さんも気遣いの人ですね。

 そこがきっと、波長が合ったんでしょうね。

――まだ10代で、自分も大変なのに。

 移植して1年後くらいに、危篤状態になったんです。そのとき隣にいた男の子も状態が悪くて、真由子とその子の「どっちがいつどうなるか」という状況でした。そんなとき、男の子が9歳の誕生日を迎えることを聞いた真由子が「私のお財布から、1本ずつ数えられるお花を10本買って渡して」って頼んだんです。「9歳なんだよ」って伝えたら「9歳まで頑張って生きたから、10歳まで1日でも長く近づいてほしいの」って言われたんです。病気で闘っている子にしか分からない1日の重みがあったんです。

 それでね、hideさんも希望を持たせてくれるとき、すごく先のことを言わないんです。「また明後日電話するからね」って言われると、明後日まで頑張ろうと思えるじゃないですか。「元気になったらこうしよう」じゃない。漠然と大きなことを言うのではなく、一つずつはクリアできることを言ってくれる。そういう励まし方をする人でした。そういうhideさんの考え方を見ていたのかなと。

――二人とも本当にすごいです。hideさんも骨髄ドナー登録されたんですよね。

 そうですね。当時、会見なんかもありましたが、hideさんはあんなに大々的にやるつもりじゃなかったんです。「hideがドナー登録をするって言っているんですけど、どんな風にやればいいんですか」と事務所の方に聞かれたので色々と話をしていたんです。たまたまそれを知った方がセッティングしてしまって、後でhideさんは「そういうつもりじゃなかった、みんなと同じようにするつもりだった」って怒ったんです。でも、そのときのスタッフさんや取材に来ていた方たちが8人もドナー登録をしてくださったんですよ。

――真由子さんはhideさんのドナー登録を聞いてどう思われたんですか。

 喜ぶと思って伝えたんです。そうしたら、涙をこぼすんですよ。実はあの子は移植を受けている身なので、一生ドナー登録ができないんです。だから「hideちゃんと一緒のドナーカードを持てない」って。

――ご本人しか持てない感情ですね。

 どれだけ頑張っても自分にカードは持てないって。ハッとさせられました。


――hideさんが亡くなられたとき、真由子さんはいつ知ったんですか。

 亡くなられた日に病院の診察があったんです。携帯電話の電源も切っていて、検査後に電源をつけた直後にかかってきた友人からの電話で亡くなったことを聞きました。すぐにマネージャーさんに電話をしたら、「そうなんです。他から聞く前に直接耳に入れたかったけれど、つながらなくて」と言われて。本当はその夜、病院が終わったらhideさんのご両親がやっている横須賀のお店に行く予定で、「都合がつけばhideも来るかも」と聞いていたんです。(訃報を聞いて)真由子は喋らないし、ご飯も食べないしですごく落ち込んでいました。次の日の朝、hideさんのお母さんから「hideがこんなことになってしまって、まゆちゃんの身体に影響はないですか」って電話がありました。

――息子さんが亡くなったばかりなのに、真由子さんのこと気遣ってくださったんですね。

 親子揃ってすごいんです。それで、(遺体が安置されていた)築地本願寺に通っていたら、色んな人が話しかけてくださった。あるミュージシャンの方が「よくhideと飲んでいたんだけど、酔っ払う前に『今、真由子はこういう状態だからちょっと安心なんだ』と話してから飲むんだよ」と話してくださった。この話は他の方も話してくださって、hideさんのロスの仕事仲間も「真由子がもう少し元気になったらロスを案内したい」と言っていたと教えてくれたんです。

――そんなお話を聞くと切ないですね。

 でもね、みんなそうなんです。本願寺で最後のお別れをするとき、YOSHIKIさんは棺のそばで真由子の手を握って「まゆちゃん、今まではhideが支えたけれど、これからは僕たちみんなが支えるからね」って言ってくださった。

――そのときはYOSHIKIさんも辛かったのに、真由子さんのことも大切にしてくださって。

 初めて会ったときも打ち上げ会場から控室に戻るとき、YOSHIKIさんがいたんです。hideさんが「どうしたの?」って聞いたら、「2人のことを待ってた」って3人で手をつないで歩いてきたんです。hideさんが亡くなった後も、自宅まで来てくださったり。

――hideさんの思いが連鎖してるんですね。


 今もお付き合いが続いていることがすごいですよね。hideさんが亡くなったとき、これで切れてしまうだろうって思っていたけれど、その後もつながっていて。真由子が亡くなっても、まだ続いている。ありがたいです。

 当時、hideさんとはメールをしていたんです。本当に短い文で、内容も真由子は「金魚を飼い始めました」とか送って、hideさんは「最近は雨ばっかりでね」とか。些細なことばかり。でも、X JAPANの解散が決まってから発表するまでの間にhideさんが「真由子のメールには本当に癒やされたよ」と言ってくれたんです。

――お互いが心でつながっていたんですね。レモネードカフェにはたくさんの方が来られていますが、どんな場所であってほしいですか。

 ここに来る方はなぜか、初めて来た人でもいつの間にか私たちを「お父さん、お母さん」と呼んでくれるんです。遠くから来てくださる方もいるので、できるだけいつも開けた状態にしたい。みんなが来てくれるから、一年でも長く続けたいですね。

 取材日は真由子さんの月命日だった。真由子さんと交流があったという常連客から4月に初めてカフェに来たばかりの高校生と客層は幅広く、楽しげに語らう姿が印象的だった。真由子さんについて尋ねると「本当に優しい子で、天使みたいだった」「話していると自分の悪い面が浄化されるような気がする不思議な人」と口をそろえる。ある女性は「聖地はたくさんあるけれど、ここはホームという感じ」と話した。hideと真由子さんの思い出は、今でも多くの人の胸の中に生きている。(聞き手/AERA dot.編集部・福井しほ)





hideを語る上で絶対に欠かすことができない少女の話。有名な話で、何回読んでも泣けてしまう。hideのエピソードでも真由子さんの話でもなくて、hideと真由子さんの話。



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