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2014年07月11日02:54

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アルフレッド・ディ・ステファノとサンタフェの星

■オランダ対アルゼンチンの準決勝でディ・ステファノ氏に黙とう
PK戦を制してアルゼンチンがオランダに勝利
(dot. - 07月10日 08:00)
http://www.afpbb.com/articles/-/3020150
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=2961307

さて、W杯も大詰め。残すところ決勝戦と三位決定戦だけとなった。
奇しくも決勝戦を見ることも無く、ペレ以前の英雄。
サッカー界の生ける伝説がひっそりと亡くなった。




【7月10日 AFP】

サッカーW杯ブラジル大会(2014 World Cup)は9日、サンパウロ(Sao Paulo)でオランダ対アルゼンチンの準決勝が行われ、試合前には7日に亡くなったレアル・マドリード(Real Madrid)の伝説、アルフレッド・ディ・ステファノ(Alfredo Di Stefano)氏に黙とうがささげられた。

 声明で国際サッカー連盟(FIFA)は、この決定はアルゼンチンサッカー協会(Argentine Football Association、AFA)とレアル・マドリードとの協議の上で下されたと発表している。

 FIFAは、「ディ・ステファノ氏を追悼し、試合前に黙とうがささげられる。ディ・ステファノ氏の写真がスタジアムのスクリーンに映し出される。また、アルゼンチン代表は腕に喪章を巻いてプレーする」と発表している。

 アルゼンチン生まれのディ・ステファノ氏は、7日に88歳で亡くなった。(c)AFP電

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『 伝説の人 』 ディ・ステファノは、愛称で『LA SAETA RUBIA (金髪の矢)』と呼ばれた。

1950年代後半にUEFAチャンピオンズカップ5連覇を達成したレアル・マドリード黄金時代のエースとして活躍し、それまで2度しかリーグ優勝の経験がなかったレアル・マドリードを20世紀最優秀クラブに選ばれるほどのビッグクラブへと変えた選手である。

また3ヶ国(アルゼンチン、コロンビア、スペイン)の代表経験があり、生涯では1126試合、
893得点という記録を打ち立てた。

一方でFIFAワールドカップでのプレー経験はなく、
ジョージ・ベストらと共にワールドカップに出場していないスター選手の代表格として知られる。

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ディ・ステファノは1949年のシーズン途中、給料問題や労働条件をめぐるゼネラル・ストライキによりアルゼンチンの名門リーベル・プレートを退団。

1948年に創立したばかりであり、当時まだFIFAに加盟していなかったコロンビアリーグのミジョナリオスFCへ移籍した。当時のミジョナリオスは地元の財界人の出資によって経済力が非常に強く、リーベル・プレートで共にプレーしたペデルネラら有力選手を多く抱えており、
"Ballet Azul"(青いバレエ)の異名を持っていた。

シーズン途中からの参加であったが、移籍後初シーズンに15試合で16得点を挙げ、クラブのリーグ初優勝に貢献。ミジョナリオスでは4シーズンで292試合に出場、267ゴール記録、1951年(31得点)、1952年(20得点)には得点王になり、3度リーグを制覇したほかコパ・コロンビアなどのタイトルを獲得した。

この活躍によりコロンビアサッカー連盟からのコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、コロンビア国籍を取得しコロンビア代表としても出場した。


【 『 サンタフェの星 』 〜コロンビアサッカーの創成期を支えた日本人〜 】


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【コロンビアの名門クラブ「サンタフェ(現ミジョナリオFC)」時代の道工。キャプションには「JOSE KAOR DOKU」との名前が読み取れる。】

そして、そこにいたのが、コロンビアサッカーの創成期を支えた日系2世
「 道工 薫 (どうくかおる)」氏(ご存命御歳90歳ですから、ディ・ステファノの2歳上)
であった。

道工薫は、コロンビアでディ・ステファノがただ一人認めた“好敵手/ライバル”であり、
同じクラブの仲間であり、国の代表チームのキャプテンだったのだ。

彼は元々がコロンビア海軍の将校であり、プロサッカー選手と2足の草鞋を履いていた。
だから、皆が彼を「エル・マリネロ(海軍さん)」とか「エル・カピタン」と呼んでいた。
でも、サンタフェデボゴタFCのファンの多くは彼のことを「エストレージャ・デ・サンタフェ」
『 サンタフェの星 』 と 呼んでいた。

コロンビアは今大会もベスト8進出し、また同じくベスト8進出のコスタリカの代表監督
ホセ・ルイス・ピントもコロンビア出身である。

だが、コロンビアのサッカー元代表に日系人がいたことはあまり知られていない。
国内屈指の名門「サンタフェ(現在のミジョナリオFC)」でキャプテンマークを巻いた男は、
1951年にコロンビア代表に初招集され、左サイドバックとして背番号6を背負っていた。

 道工薫は1924年5月16日にコロンビア北部のウシアクリという小さな町で生まれた。父の利雄は広島県の竹原市出身。若かりし日の彼が地球の裏側の未知の国に目を向けたのは、竹原市から先行して1915年(大正4年)にコロンビアに単身移住していた同郷の先輩から呼ばれたためであった。

 1918年にコロンビアに入国した父の利雄は、紆余曲折を経て雑貨の行商をしながら一応の生活基盤を築くようになる。1921年にコロンビア人の女性と結婚してまもなく薫が生まれた。家族はやがてバランキージャ市に移り、幼少の道工は路上のフットボールに目覚めた。

 道工は苦笑しながら当時を回想する。

「フットボールといってもボールは蹴っていません。スペイン語で、ボラ・デ・トラポと言ってね。ぼろの布切れをたくさん重ねて丸めたものをボール代わりにしただけです。もっとも、今だって貧しい子供たちはそんなに変わらないですよ。バランキージャは海沿いの暑い街です。いたるところにココナッツの木があり、実が落ちています。子供たちはパンツ一枚でそれを蹴り飛ばしている。この地域から有名なサッカー選手が数多く輩出されて代表メンバーの中心になっているのは、そんなところにも理由があるのかもしれませんね」

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 バランキージャ市などカリブ海に面する地域一帯のことをコロンビアでは総称して“コスタ”と呼んでいる。そのコスタの代名詞こそがサッカーなのである。コロンビア・サッカー界の象徴カルロス・バルデラマ(元コロンビア代表)とラダメル・ファルカオ(モナコ)を筆頭に錚々たる顔ぶれを輩出したコスタの地で育まれた道工は、1948年に産声を上げたプロサッカーリーグでプロ選手となった。のちに国内屈指の名門となっていく「サンタフェ」に入団したのだが、このとき道工は、専業のプロサッカー選手ではなかった。

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この時期は道工のように兼業選手が少なくなかった。専業でメシが食えたのはコロンビア人ではなく、助っ人のアルゼンチン人やパラグアイ人やウルグアイ人たちだった。道工がキャプテンを務めた1949年当時の「サンタフェ」のメンバーの半分近くが外国人だった。だから代表に招集されても兼業の仕事が多忙だと合流できない者がいた。

 道工も例外ではなかった。

 代表に招集された翌年、道工はすでに勃発していた朝鮮戦争行きを志願した。サッカーを辞めてまで自らの意志で朝鮮に行こうとしたのは、その途上で日本へ行けるかもしれないと考えたからだ。

「1952年のことでした。私はクラブを辞めてコロンビア海軍の一員として横須賀や佐世保の米軍基地に駐留しました。そのとき、休暇をとって広島の竹原へ通訳を連れて行きました。父の家族に会えてとても嬉しかったのを覚えていますが、通訳を介しているせいか、どこかぎこちなさもありましたね。でも父の故郷が見られて良かったです」

 帰国後も道工はコロンビア海軍の一員であったが、国内のクラブは彼を放っておかなかった。ステファノやのちにカルロス・バルデラマが所属した国内屈指の名門「ミジョナリオス」の選手となり、1959年の35歳までプレーを続けた。

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【グッド(上向き矢印)後列左から5番目が、コロンビア初代代表チームのキャプテンを務める道工薫】

日本がワールドカップで対戦するまで、その存在すらも知らなかったコロンビア・サッカー
カルロス・バルデラマやイギータや現在のラダメル・ファルカオやハメス・ロドリゲスにまで
至る系譜の源流には、アルフェレッド・ディ・ステファノや名も無き日本人の存在があった。

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もしかしたら、ハメス・ロドリゲスの左腕に止っていたバッタは
病床のディ・ステファノ魂がこっそり後輩たちの活躍を覗きに来たのかも知れない。

とまれ、アルフレッド・ディ・ステファノ R.I.P

■参考:文春NumberWebより、抜粋転載

http://number.bunshun.jp/articles/-/820980

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