意外と反響が大きかったので、早速、続編�△貌容�することにする。
そんな暴君な父だが、普段は滅多に家にいなかった。
仕事、ゴルフ、会議、友達、飲み会、家にいるのは、それらが偶然ない時だけだ。
ゴルフに関してはハンディキャップゼロだ。
いつもいくコースではグラチャンになった事もあるし、コンペでも、しゅっちゅう優勝やら、ドラコンやら、ホールインワンやらのトロフィーを持って帰ってくる。
家のガラスケースはそんなのでいっぱいだ。
父はそんな感じに多忙だったので家に帰ってきてもすぐに出かける。
これは私たちにとっては楽園だった。
母が『勉強しなさい!』
と、本気で怒鳴ったところで、普段の父の恐怖を体験している私たちが怖いはずもない。
私たち兄弟も悪い。
本気で必要な事は、母の言う事を聞いたが、勉強だのという事については、ないがしろにした。
しかしこれが、またもや悲劇を生む。
父は母に
『俺は仕事で金を稼いでくる。お前は家庭の事、子供の躾、教育を完璧にしろ!』
と常々、言っていたらしい。
だから、参観日だの、塾だの、学校の催し物だの、絶対に参加せず、全て母にやらせた。
だから、父からすると、私たち兄弟が、成績が悪いのも、素行が悪いのも、家に遅く帰ってくるのも……
全て、母親の指導不足の賜物という訳だ。
そういう時は、当然、私たちも叱られるが、私たちの5倍は母が叱られる。
『子供の躾とか教育は、お前に任せるって言うたろうが!』
『脳なしか、お前は!!』
烈火のごとくキレまくる。
小学校の5年生からは、高知県では一番学力の高い、土佐塾という進学塾に通った。
学校の勉強がつまらなかったのもあったし、母が叱られるのを見るのも嫌だったというのもあった。
普段の成績は、全国模試などで、灘中、開成中が受けれるほどの学力ではなかったが、たまに成績が良い時などは、そのクラスでも合格圏内をもらった事もある。
当時は高知県では、土佐中・高等学校が、一番東大進学率もよく、一番頭のいい、おぼっちゃん学校とされていたのだが、そこレベルだと、合格圏内若しくは合格確実の評価であった。
それでも、父は褒める事はなかった。
塾内の模試で、650人中、12番くらいが最高成績だったが、これを取った後に、次が90番くらいとかだと、ブチ切れた。
100番以内だと、その土佐中は合格圏内なのだが、納得しなかった。
父の口癖は
『1番以外は全部同じや。やるからには全て1番じゃないと意味がない。』 だった。
私ら兄弟が通っていた山田小学校等学校は、高知県でもさらに田舎の香美郡土佐山田町という所にあった。
中途半端な田舎だから、全校生徒が1000人以上のまあまあ大きな学校だった。
この土佐山田には、いわゆる部落地区がある。
だから、この小学校は、やたらと同和やら、道徳やらの授業が多かった。
私からすれば、普通に仲良い友達がたくさんいたし、異常なまでの教育の意味が分からなかった。
『今日は、社会科見学です。部落の地区を見学しにいきます!』
なんて課外授業もあった。
仲の良い友達がその道中で
『おお、ここ、俺んち!!』
なんて、言っていた。
小学校の5年の時の担任の先生が、差別をなくそう運動みたいなのに、やたら力を入れていたのを思いだした。本当に異常なまでの熱意で同和関係の教育を推進していた。
実は、この先生は自分が部落出身だという事を隠して、そういう運動をしていたのだが、後にみんなにバレて、姿を消した。
今の社会では、不利になったり問題にあったりもあるかもしれない。
それは十分に理解できるが。
後から考えればという感じだが、幼心ながらに、事実を隠して、偽善者ぶって教育をしていたその先生に不信感を抱き、それが後々まで、教師を信用できない心をつくる基礎を作り上げてしまったように思う。
小学校5年生で、教師に不信感を持った私は、ちょっと強かった。
大人だって嘘はつくし、筋は通さないし、そんな人の言う事を真面目に今まで聞いていて、損したと思った。
授業を真面目に受けずに、ずっと廊下でチョロQで遊んだり、さぼって校外に出て、本屋で漫画を立ち読みしたりした。
今までひ弱だった自分が嫌になり、クラスの不良っぽい奴らとも喧嘩をするようになった。
ただ、私の有利な所は、塾に通っていたし、授業をさぼろうが、居眠りしようが、テストで90点以下などなく、ほとんどは100点だったって事だ。
授業中によそ見をしていたり、居眠りをしていて、急に問題を答えるように先生に当てられても、完璧な答えができるようヤな感じのガキだったっと事だ。
素行が悪い癖に、頭のいい子供ってのは、指導側からすると、やりにくいらしい。
ちょっと、腫物に触るというか、変な感じで扱われたような気がする。
そんなある日、私は、体育館の緞帳(ステージにあるエンジ色のビロードっぽい高そうなカーテン)で遊んでいた。
このカーテンを丸めて、ターザンごっこをしていた。笑
そもそもカーテンはぶら下がる為にある訳じゃないので、当然といえば当然の結果で
『ビリビリビリビリーーーーー!!』 と激しい音をたてて、裂けてしまった。
さすがに私も、反省した。
しかし、その反省会は校長室に呼ばれて4時間にも及んだ。
あまりにも長くなってきたので、反省の色も薄くなってしまい、謝っても、謝っても、キリがないので、自分の行いを棚に上げて、段々、腹が立ってきた。
『じゃ、どうすればいいんですか?弁償?そのカーテンいくら??』
この私の言葉が、教師連中の火に油を注いだ。
親を学校に呼びだすという話になった。
この電話を受けて、山下家では
母と父の喧嘩がまた始まっていたようだ。
父 『お前の教育が悪いから、ますらおがこんな事件を起こすんじゃ』
母 『一度でいいから、現場に行って子供から直接話を聞いて下さい!』
みたいなやり取りだったようだ。
この時は、なぜか父が母の言う事を聞き入れて、学校にやってきた。
これは山下家では非常にすごい事で、前代未聞の初めての事だ。
父は、校長室に着くなり、私の髪をつかんで、思いっきり地面の方向に頭を下げさせて
『このたびは、大変申し訳ありませんでした。』
そういって、自分も頭を下げた。
その次に父から出た言葉はこれだった。
『すぐに弁償しますが、いくらですか?』
不覚にも、私は、笑いをこらえる事ができずに、ふきだしてしまった。
先生らが
『いやいや、お父さん、そういう問題ではなく……うんたら、かんたら』
と、言う言葉は全く、耳から入ってこず笑いを殺して
下を向いて、口元を隠して、クックック・・・…と肩が震えないようにするので必死だった。
たぶん、教師は、この親にして、この子あり、最低だなって思っただろう。
だけど、私にとっては、自分のしてしまった悪事はさておき、久しぶりに愉快な1日となった。
帰りの車では、怖くて一言もしゃべれなかったし、父もひとこともしゃべらなかった。
でも、なんか久しぶりに父を機械じゃなくって人間だって思った。
父の悪い事ばかり書いたので、フォローという訳ではないが、良い事も書いておこう。
スキーが好きで(しゃれではない)、私が3歳の時から毎年スキーにつれていってもらった。
家族みんなでスキーに行くのはすごく楽しかった。
父は車が好きで、ハコスカ、ケンメリ、ジャパン、130、ジープ、コスモ、NSXなど、たくさん車を乗り換えたのだが
とある年に、スキーに行った時に、私が弟と兄弟喧嘩をして、ぶん殴って、弟が鼻血を流した時があった。
兄弟喧嘩の仲裁に入って、父もキレていた状態で、車に乗り込んだ。
父はキレていたので、ジャパンにZのキーを入れて、馬鹿力で、ONまで廻してしまったのだ。
これ、セルまでは回らないし、キーは抜けなくなるし、最悪な状態となった。
父は、通りすがりの派手な車のヤンキーを捕まえて
超高圧的な態度で 『おい、止まれ!止まれ!』
と、駐車場内で、そのヤン車を止めた。
『困ちゅうき、助けてくれや!』 そう言って、車の方にヤンキー軍団を連れてきた。
実はこのヤンキーが結構メカに詳しくて、ブースターケーブルで、バッテリーとセルモーターを直結してエンジンをかけてくれたのだ。
父は、『おう、すまんのぉ!』などと
それが感謝の言葉か?
という態度だったが、そのヤンキーの方が 『いえいえ』などと頭を下げて
紳士的な態度で去っていった。
今考えれば、小学校2年、4年、5年の3人の子供と、嫁を連れた家族の父の姿ではないなとは思うが、その強引な行動力により家族が救われたのは事実だ。笑
それ以外でも、小学校の時には、奄美大島、グアム、ブルートレイン旅行、などに連れて行ってもらった。
旅行中って、やっぱり、兄弟喧嘩で私が弟を殴るとか、弟が行方不明になるとか、父がキレるとか……。
絶対に100%何か問題が起こるのだが、それでも楽しかった思い出ではある。
話は戻り、小学校6年になると、学校をさぼろうが、勉強の成績さえよければ、父は何も言わなかった。塾の方が大事だからと言うと、『そうか、頑張れ』と言った。
この父の考えは、私の学力を上げたが、学校でも素行の悪さもあげた。
いわゆる不良連中と、よその小学校に喧嘩を売りに行ったり、中学校の制服のボンタンを小学校から、はいたりした。
親が共働きで、いないヤツの家にタムロして、タバコを吸ったりした。
ただ派手な格好をしているのを父に見つかったら殺されるので、外で着替えたり地味な上着を着たりして誤魔化した。
だが、成績は良かった。
おかげで、無事、先ほど説明した、土佐中・高等学校という進学校の試験に合格した。
父の意向は、歯医者を私に継いでもらう事。この一心だった。
私は、アホだったので、まだ将来の志なんかなかったので、何も考えていなかった。
また後で書くが、私が将来の事を真剣に考えるようになったのは、これからまだ10年以上後に事だ。
23歳くらいだったと思うので、普通の人より、かなり遅い。
この話はかなり後になるだろう。
つづく
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