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2026年06月20日20:30

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少年に懲役10〜15年求刑=江別集団暴行死―札幌地裁

■少年に懲役10〜15年求刑=江別集団暴行死―札幌地裁
(時事通信社 - 06月19日 18:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8834598

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北海道江別市の公園で2024年、大学生長谷知哉さん=当時(20)=が6人から集団暴行を受け死亡した事件で、強盗致死などの罪に問われた当時16歳の少年の裁判員裁判の公判が19日、札幌地裁(高杉昌希裁判長)であった。検察側は「責任は軽微とは言えない」として懲役10〜15年の不定期刑を求刑した。

 6人のうち3人の公判が先行し、川村葉音被告(21)は無期懲役、当時18歳の滝沢海裕被告が懲役20年を求刑されている。25日にそろって判決が言い渡される。

 この日の公判で検察側は、少年が犯行を主導したとは認められないものの、自ら長谷さんを暴行する場面もあったと指摘。頭髪を燃やされた長谷さんを「これ花火だ」と嘲笑したと非難した。

 弁護側は、従属的で「精神的未熟さがあった」とし、懲役5〜10年の不定期刑が相当と訴えた。

 起訴状によると、少年は24年10月25〜26日、5人と共謀し、江別市の公園で長谷さんを暴行。現金やクレジットカードを奪い、長谷さんを外傷性ショックで死亡させるなどしたとされる。 
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罰則刑の妥当性には、前例踏襲から大きく逸脱していない事、時代や世論の変遷にともなう刑罰の妥当性が検証される事、などから決定される。とはいえ、日本司法は基本的に人事権を最上とする官僚制度であるから、基本的にOB忖度、出世第一が全体の大部分を占める。

その結果として軽微な犯罪ならいざ知らず、重篤な凶悪犯罪までもがほぼ世論の理解を得られない結果になっている。

例えば、本件は殺人である。さすがに計画的でも殺人の意図もないにしろ、これだけの暴行を重ねて死ぬとは思えなかったと主張するなら人間として裁く事は出来ないだろう。野生動物なら熊と同じように処分すべきである。

その点では、シリアルキラーの方がまだ殺人罪にふさわしい。トクリュウ実行犯たちの方が凶悪犯罪として死刑にしやすい。これらは、DNAなどの生物学的生存の意味を除けば、社会的に存在する意味はないという判断が成り立つ。その場合に欧米では終身刑により社会隔離で対応する。日本などのアジアでは、死刑として物理的に社会隔離で解決する。

勿論、死刑に関する冤罪に関してはどの司法でも課題を抱えているのだが、特に前近代的官僚制の日本司法では問題に対する判断そのものを保留にしている部分がある。見て見ぬ振りをして先送りにしている。そのため冤罪に対する反省も制度見直しも自発的には行えていない。これはほぼ自浄作用を持っていないという事である。

そのような労働環境にあるから日本司法の罰則は軽いと見做されるのは当然である。冤罪に対する懸念が軽い量刑によって担保する仕組みに自然と落ち着く。

すると軽い罰則に対して、国内に不満が出るのは当然である。その主な理由はこのような凶悪犯罪に対してこの量刑はあり得ないという自然感情である。これが最初に出たのはコンクリート殺人事件だろう。類似の凶悪犯罪はその後も起きている。しかしそのいずれでも日本司法というか官僚的裁判官が下してきた罰則は余りにも軽いものである。

ここでの軽さは、どういう感情に基づくかといえば、人類が自然ともっている復讐心にある筈だ。だから人によってこの軽さの重みは異なる。恐らく共感性羞恥を持っているような人が被害者と共振するほど強く感じるだろう。

復讐から量刑が求められるかと言えば、そこも少し違ってくる。同じ100円を盗んだら同じ罰則である方が望ましい。しかし盗んだ理由というものでも刑の重さは変えるべきだろう。殺人だって同様である。そのために過失致死という考え方がある。murderとmanslaughterの刑の区別がある。

それで量刑の妥当性をどう測定するかという点で明らかであるべきは再犯した場合の責任と直結する。つまり刑を終え再犯した場合のその責任の所在だ。

それが刑が軽すぎるならば裁判官が共犯となろう。その再犯が関係ないなら量刑は妥当となる。この辺りでアメリカには三振法がある。つまり、再犯に関しては根本的な解決方法がないという意味だ。再犯する悪党か、不幸にして再犯に至ったのか、それとも更生したのかには、ある意味運のような所もある。ブラックジャックにも人面瘡によって再犯に至らない話があった。脳腫瘍にかかっているから犯罪をした、しなかったという話は誰にでも起きうる。

だが、この辺の事情は次の被害者には関係ない。その家族ならなおさらだ。だいたい量刑に関して人の考える事は、現在の年齢+量刑である。その結果として何歳で社会に戻ってくるか、その時の体力や思考能力から総合的に再犯した場合に防ぎきれないと考える。これが妥当な判断の筈だ。

故に重犯罪の場合に拘束されるべきは、その年数ではなく何歳で出所できるかで決定されるべきだろう。20歳の殺人者が35で出所して再度重犯罪したなら、その責任を最も負うべきは、犯罪者ではない。その量刑で結審した裁判官であるべきだ。

しかし、そのような要求の上で、正しく司法を維持できる人間などいない。司法制度はそのような形では維持できない。もしそれが行われるなら、重犯罪者には終身刑か死刑以外は結審できない。

25年という一般的な殺人の量刑でさえ、50なら妥当と思えるが、20代なら若いと感じる。これは明らかに再犯に対しての憂慮だ。

近代以前であるならば、重犯罪に対しては肉体的欠損によって再犯防止策をとる事ができた。例えば、手足の切除などである。また簡易であっても顔に入れ墨を入れるような事を江戸時代にもやっている。これらは妥当的な抑制手法と考えられる。ここでも冤罪はネックになる。

結局再犯による被害者を出しながら司法は量刑の妥当なラインを変えてゆく事になる。緩やかにはこの方法しかない。しかし、これが妥当であるべきは司法に自浄能力を持っている場合に限られる。司法がよりよくなってゆくから被害者の家族はその軽い量刑でも飲み込む事ができる。ここで信頼を失墜すれば、その国家には直接復讐法しか残されない。

近代国家の司法が復讐を禁じる事、その理由は何に基づくのか。ひとつには手続きにある。正当な手続きを経ない限り、誰かの自由を奪ってはならないからだ。今の日本のように警察でさえ国家に忖度するような状況でこれが実現できているとは言えない。秘密警察を持っている国では、この原則だって維持できているとは言えない。

そのような中でも人々の多くは、法に基づく正当な手続きに正義を託す。そこにしか託せないというのは人類が到達したひとつの理想理念だろう。復讐心を失う必要はない。しかしそれは正当でない手続きをうしなっていい理由にならない。

だが、それにも限界がある。だから司法は常に市民の眼に晒され、この量刑は正義を支えるのに耐えられるかと問わなけれければならない。もちろん日本の司法にそれは既に残っていない。いや多くの国家で道半ばであろう。司法かかくも難しい。

だから、その道に投じる人たち、弁護士、検察官、裁判官、ついでに警察官は、気が狂っているとしか言えない。だから若者たちをリクルートする仕組みにしている。よい就職先として国家はその仕組みを整備する必要がある。

それゆえに憲法は良心に従えとしか書かない。多くの人たちはそれを仕事としてやる。仕事でなくするには本当の司法は重すぎる。その正義の責任は全員で分担しなければ支えきれない。秘密警察の人たちも革命が起きたら次は追われる立場と知っているから必死に人々を投獄する。その程度の正義の概念しかない人たちが次々と就職してゆく。

無期懲役になるような重犯罪者をなぜ税金で食生活の保証をする必要があるのか?社会には、食べるのもかつかつで子育てをしている人がいるのに。なぜ犯罪者のごはんを作るようなドラマを平気で観劇できるのか。そいつらの罪状は何か知っているのか?

重犯罪者をなぜ美味しい麦飯を食らわせ生活させるのか。なぜ刑務所で餓死させてはならないのか。なぜ癌患者は治療する必要があるのか。長い獄中生活で更生したからか、更生するための道筋としてそれが必要だからか?同じ苦しみも味わっていないのに更生は可能なのか。

近代国家の司法は人の感情を支えるには欠陥品だ。故に司法に携わる人は常によりよくしようと模索する。それを失っている場合、その司法には期待できない。司法が崩壊した国家は既に近代国家として成立しなくなっている。日本司法は既にそれを失っている。


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