最近、非常に耳につく表現がある。
・「12月か11月には実施〜」
・「100件か90件くらいあるとされ〜」
・「支持率が80%か70%と高く〜」
つまり、「だいたい、これくらい」とあいまい数値を言うとき、小生の感覚では
必ず小さい方から大きい方を言うのが無意識で当然だが、動画などでは大きい方
から先に言う例が近年、増えている気がする。
例)
https://youtu.be/KSf2j0DiR1k?t=356
これは「話し言葉」に限定されるもので、文章ではちゃんと小さい方から並べる。
・「11月か12月には実施〜」
・「90件か100件くらいあるとされ〜」
・「支持率が70%か80%と高く〜」
勿論、文脈として、支持率が下がったなら「低下したが80%か70%と高く」
とするなら解らなくもないが、この場合でも70%か80%と言うのが普通だと
思う。
また、言ってる途中で自分で間違いに気づいて、訂正の意で付け加える、例えば
「12月だったか(と言って、あれ?違うか?と)11月だったか」との場合も
あるが、それでも以前は「11月だったか12月だったか」と言っていた気がする。
「完治までに1〜2カ月くらいかかる」は普通の言い方だが、これも近年の動画で
「完治までに2カ月か1カ月くらいかかる」と言う者がいて非常に違和感があり
記憶に残っている。
単に個人の感覚で、別に大した意味も無いかも知れない。貴殿はどうだろう?
そこをあえて!「そういう表現が増えている傾向がある」という提示したい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<とにかく早く伝える脅迫症候群>
===============
SNS時代の特徴=無思考の産物
===============
以下は個人空想だが、
・こういう表現は近年、傾向として増えている
・その原因はSNS時代に象徴的な無思考
・思ったことを、内的に整理せず、パッと言ってしまう
・「考えて伝えること」より「とにかく早く伝えること」が無意識で心理的な
作用による。
・大袈裟に言えば強迫観念的になっている。
のではないだろうか。
・おおまかな数値を話すとき、
・まず単独の数値を思い浮かべ(例えば12月!)、
A)
・しかし、内的思考で「その近辺だったけど11月かも知れない」と思い
・そこで初めて整理して「11月だったか12月だったか」と話す
しかし、
★★★とにかく早く伝える脅迫症候群(小生の造語w)★★★
によって、
・パッと思い浮かんだことを、Aの時点で言ってしまう。
のではないだろうか。
=========
ウソつきを増産する
=========
この「とにかく早く伝える脅迫症候群」の弊害はウソつきを増産する。
・本来、他人様と会話するとき、
・なるべく正しいことを言おうとするのが普通である
・それには、まず自分が内的に「よし、これでよい」と無意識に決定した
数値を言おうとするものだが
・事実の正確性より速度が求められ、
・結果、真偽のあいまいな事柄=ウソが高速で伝わる、それでもイイ、
だって速いことがイイのだから・・・
この象徴的な慣習として、
・関西弁では
・「昨日は日本が金メダル3個も取ったらしいでえ・・・知らんけど」
という「知らんけど、で〆る」という話法がテッパンになっている。
これは
・「あいまいでウソを言っているかも?という内的不安」を緩和するため
・「知らんけど」で〆ることで「真偽に責任は持ちませんよ」
というエクスキューズ、防衛本能、無責任心理などととされている。
「関西人の人好き話し好き」は自他共に認める関西人の特性だ。
事実よりも、オモロイ会話を楽しむこと、を求める。それは善き文化だ。
小難しい理屈を言わずとも、そもそも、太古の昔から、ウソつきたちは
思考しないで思い浮かんだことを語ってきたものだ。
・相手にあわせテキトウなことをまくしたてる
・結果、言っていることのほとんどがウソ
これは「相手とのコミュニケーションを大切にする」という善き面はあり
会話でいちいち真実性を正す=指摘していては「あっ、ソレ違うよ」
「あっ、ソレは〇〇が正しいから」とやって話しのコシを折っていては
相手だって不快、それよりウソでも調子よく合わせて会話した方が相手も
楽しくなる、そういうこともあるが、度を越してやれば、影で「アイツ、
調子よく話してたけど、全部、作り話しだよな」とネガにもなる。
===========
善し悪しは決められない
===========
諸行無常、所詮、浮世は「ひとかたの夢」
せいぜい、生きてるうちは楽しくやりたいモノである。
なんでもかんでもガシガシと事実にこだわる必要はない。
意味のないウソだらけの会話で楽しめるなら、それはそれでよい。
小生だって、普段は無意識に会話のノリにあわせ、多少盛ったりするw。
只、完全な作り話しはした記憶はない。必ずベースのエピソードがあって、
でも、その場の空気で多少、誇張したりする。
ブッダも言っている「ウソも方便」だと。
(まあ、ブッダ本人が言ったのではなく、後世の弟子の創作だろう)
老いて、痴呆も進んだ老人に、バカ正直に末期ガンだ!と言う必要はない。
「病気ではないが、老衰だから、栄養を取ろう」
とウソを言うべきだ。
・他人様を喜ばせるウソ
・他人様を安心させるウソ
はある。であれば「他人様を幸福にさせるウソ」も必ずあるだろう。
他方、
子供が学ぶべき慣習として「ウソをついてはいけません!」
これもまた事実だ。
============
ウソで傷付くのは己のせい
============
話しが飛躍したが、続けて脱線する。
SNSの今、ウソで傷付く人が多くいる。
勿論、理解はする。
が、
「ブッダの作法」の観点で言えば、ウソで傷付く因果の因は己にある。
これは真理なので、反論されても、小生にはどうにもできない。
だって事実だから・・・。
・ウソで傷付くのはウソを信じたからだ
・信じる、という行為は「相手が己の思うアナタであってほしい」と
相手を己の空想する人間に固定する行為である
・それは、相手にとって、とても失礼で危険な行為である
他人様はみな、他人様個人の思い/理念/理想/価値観を持っている
その多くは、ほとんどアナタのソレと異なっているハズだ。だからこそ
他人様と交流する意義もある(他人様が己と同じなら交流する必要はない)。
信じるという行為は、他人様の自由を否定する行為である
(つまり、大乗仏教徒はみなブッダを否定している。
小生はブッダを信じると表現したことは1度もないと記憶している。
ずっとブッダの叡智を理解するかどうか、としか言っていない)
「約束を破った、信じていたのに!」
ソレは己の傲慢である。
・相手にだって約束を破らなければならない事情があったかも知れない
・百歩譲り、悪意で己をダマす意図で約束を破ったかも知れないが
それでも、他人様の誰もが、己ごときとの約束を守る義務などない。
(誰も、己に食事を作ってくれる義務などない。
誰も、己と一緒に暮らす義務などない。
誰も、己を誘って酒宴してくれる義務などない。
それでも、義務などないのに、己にそれらをしてくれる。
只、感謝しかない)
・無意識に己を尊大な存在=約束を守らなければならない存在にしている
己のおごり/増長/傲慢が、信じるという行為を成している
・立派なオレさまが信じた、なのに裏切った、オマエごときが!と。
SNSの今、ウソで傷付く人が多くいる。
それは人々が、少しづつ確実に増長/傲慢を増している証明と言ってよい。
ログインしてコメントを確認・投稿する