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2025年03月30日17:10

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吟醸酒のふるさと東広島・西条 (4)

新たな仲間と協力者たち
 鉄道の開通にあわせて和平たちは清酒増産のための蔵を新築します。明治28年に
 木村酒造の北東にあった竹藪の跡に新たなj蔵を立てました、一方の博三は、兄から

 実家の建物を譲り受けさらにその後ろに新たに蔵を新築しました、そしてその場所が
 後日「島酒造」となるのです。そして西条町には2軒の造り酒屋と4つの酒蔵が揃いま

 した。和平と静彦と博三は、西条の町の商家を回って酒造を勧めて回ります。ここには
 良い水と良いコメがある、それに港に代わるかもつ駅もできた。これから酒造りは町の

 主産業になる。と説き伏せて回るけれども、中々聞き入れてもらえません。そんな折に
 和平の住む隣の『吉田屋」の跡を継いでいた石井峯吉という男が実家からの支援を得て

 酒蔵を立てて酒造業を始めたのです。
  和平はもう一つ大きな仕事を後世に残しています。西条駅と南の沿岸部を結ぶ道路の

 建設工事です。予定では西条駅ができて5年以内に完成でしたが、イナゴの大発生によ
 りその駆除に予算が使われてしまったのです。和平が寄付を世にかけ、博三や静彦も

 資金を出して用地を買いますがまだ不足です。そこで博三の義兄や義弟、峯吉の義父に
 も協力を得て明治33年に完成させました、

新らし醸造技術と精米機
 貨物駅や新しい道路をが完成した頃にもう一つ大きな変化がありました。当時兵庫の灘
 で作られる酒は、当時の最高品質の酒であり、全国どこの酒造場でもこの酒を造れずに

 いたのです。輸送網の発達によって灘の酒は全国に運ばれていきました、それの影響で
 地方の酒造業者の中には事業をやめるものも出てきました、そんな時に三津にて研究を

 続けていた三浦仙三郎が、苦労の末に新しい醸造技術を開発したのです。仙三郎はそれ
 を本に書いて全国に公開しました、その技術はその後「軟水醸造法」と言われ、灘以外

 では造ることが難かしかった「灘流生酛造り」に代わる技法として全国に広まっていく
 のです。仙三郎の著書名「改醸法実践録」明治31年初版

 鉄道が広島港まで開通した明治27年に、鉄道技師を辞してふるさとの寺西村に帰って
 きます。その男の名前は「佐竹利市」その人が少年の頃に和平の蔵で使う酒米の精米を

 手伝っていたのです。当時は水車精米が主でしたが。西条の町の周辺には水量の多い
 川や落差もある場所もなくて、寺西村の向こうの米満という所まで米俵を大八車に乗せ

 そこの水車小屋迄往復していました。その米運びと水車の番をしていたのが利市でした
 水車で米を撞いて白くするのには限界を感じた利市は、新しい仕組みを考えて和塀に、

 そのことを話したことがありました。和平はそれを覚えていて、利市に「それを作って
 みんか?」と資金を出してくれました。利市はそれを元手に寺西村に工場を造り「佐竹

 機械製作所」を設立して機械式精米機とし、現在はコメの乾燥機やライスセンターなど
 米を扱う機械を幅広く製造。販売しています。




























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