島津忠恒(家久。同名の叔父がいるため、初名の忠恒で呼ばれることが多い)は戦国DQN四天王に数えられているし、実際にやってることはえげつないのだけれども、全く故のない凶暴さであったかというと、そんなことはなかったのではないかなと。
豊臣大名としての島津は、家中がバラバラ。当主の義久に男子がいないことから始まる後継問題、そこから発展した義弘と義久の緊張状態。大身の家臣や一門が豊臣の準直臣扱いとなってしまい、上下関係もグチャグチャ。そうやって島津本家の支配力が弱まったと見るや、あっという間に巻き起こる国人衆の武装蜂起にサボタージュ。
朝鮮出兵も石高に比して重めの軍役を課せられたけれど、本国の国人衆のサボタージュによって動員が全く進まず、とりあえず集まった手勢で出陣して、後続組とは現地で合流する形にはしたものの、それでも大幅に遅れての出陣になったし、トータル動員数も足りなかった みたいな話。
考えてみると、この辺の流れは関ヶ原にも似ているところがあって、いろいろ言われている島津の関ヶ原での寡勢っぷりだけれども、そもそも統制取れなくて動員できなかっただけではないかなと。
忠恒は家臣や一門を粛清しまくったためDQN扱いされているのだけれども、そうしないと家中の統制取れなかったところはあるのではないかなと。それは旧家が近世大名になるためには、(規模はそれぞれにしても)必ず通る道。粛清話だけをもってDQNとするのは どうなんだろうかなと思う。
…まぁ朝鮮出兵の際に、現地についてまず家臣にやらせたことが「サッカー(蹴鞠)コート作り」だったり、琉球への圧政っぷりとか考えると、やっぱりDQNとしか言いようがないけれど。
先日の日記で、同じく四天王の一人・細川忠興の話になったので、ついでに日記にしてみた。細川忠興は、特に政治的背景なしに家臣を手打ちにしているパターン含まれるので、普通にDQNだと思う。
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