一つ前の日記で触れた、徳川幕府と朝鮮の国交回復に関わる「柳川一件」のメモ。
日朝交渉のパイプ役になっていた宗氏は、交渉の過程で双方の国書を改ざん(送った先のメンツが立つように、へりくだった表現に変えるなど)して、国交回復交渉をまとめる。朝鮮側は(おそらく幕府側も)改ざんには気がついていたが、国益を考えて、敢えてスルーした。
柳川調信は宗氏家臣団の一人。外交官として有能な人材であったことから、宗家から半ば独立した扱いをされていて、家康や秀忠の小姓も務めていた。
そういう立ち位置の人物であったため、直接の主君である宗義成との関係は悪化。宗氏さえ没落すれば幕府直参旗本への転進が叶うと考えた調信は、宗氏の行った国書改ざんを暴露。調信は幕閣からの覚えもめでたかったため、有利な裁定が下るはずだった。
しかし最終決定権を持つ家光は、代々朝鮮とパイプを持っていた宗家の存在を重視。幕府が交渉をコントロールできるように実権を一部を奪った上で、宗家は無罪放免。逆に柳川調信らは流刑。
で、柳川調信の流刑先というのが、津軽藩だったという結末。津軽藩では客分として丁重に扱われ、死後も津軽藩主の菩提寺に埋葬されるほどの待遇ではあったが、南国生まれの江戸育ちである調信にとって、津軽での生活が決して楽しいものでなかったことは想像に難くない。死ぬ前に故郷に帰りたかっただろうなと。
ちなみに、調信が流されて数年後に、相良家の重臣として「信長の野望」シリーズにもちょくちょく登場する犬童頼兄も、藩政を壟断したとして津軽に流されている。頼兄はすでに70代。九州で生まれ育った老人に津軽はキツイだろうと思ったら、なんと88歳まで生きている。
なお調信らを迎え入れた4代藩主・信政は石田三成のひ孫(祖母が三成の娘)。受け継がれる流刑地スピリット。
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