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2022年07月02日19:52

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近場の文化遺産 のメモ

大道寺直英は、舎人経忠と遠山綱景の娘の子(ようするに綱景の孫)。第二次国府台合戦で綱景と父が戦死した後、母(綱景の娘)が大道寺政繁に嫁ぎ、以後は養子として大道寺を名乗る。秀吉の北条征伐の戦後処理で、大道寺政繁は戦犯の一人として責任を問われて自害。直英らは徳川のとりなしによって助命され、直英は徳川義直の元に寄宿した。

津軽為信の三男、津軽藩二代目藩主・信枚は、軍学者にして思想家である山鹿素行のファン。素行を津軽に迎え入れるべく、相応しい城を建てようとしていた。

大坂の陣に面識を持った直英と信枚。直英が北条時代に城の改修工事に携わっていたことを知った信枚は、徳川義直に話をつけた上で、直英を築城担当の家臣に迎え入れる。

城の建設開始。予定地の湿地帯を掘り起こすと、その一帯に縄文人の集落があったらしく、瓶(かめ)などの大量の土器が出土。城が途中まで出来上がったところで、幕府から一国一城令が出てしまい、結局未完のまま破却。整地した建設予定地は、農業用のため池に転用。土器は好事家の間で有名になり、近現代になって考古学的な価値が評価されるようになった。

で、これが世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する遺跡の一つ、亀ヶ岡遺跡の由来という話。間接的にとは言え、まさか国府台合戦や山鹿素行が関わっているとは思わなかったし、あのため池が城跡とも全く知らなかった。

津軽藩は山鹿素行は迎えることはできなかったけれど、代わりに山鹿素行の娘婿が送り込まれて、藩から重く用いられる家となった。本来の目的は達成できなかった大道寺直英だけれども、築城抜きでも一角の人物であったみたいで、やはり重く用いられる家となった。

大道寺家は明治になって起業し、その会社は今でもガソリンスタンド経営やプロテオグリカン(軟骨成分)商品の開発販売等をしている。
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