昭和初期に、浪曲師広澤虎三が「次郎長伝森の石松」で名声を博した頃、森町に来て枕詞
(マクラコトバ)を欲しいとの話があり、茶商が草案。
〜秋葉路や花たちばなの茶の香り、流れも清き太田川、若鮎踊る頃となり、松のみどりの
色も冴え、遠州森町良い茶の出処、娘やりたやお茶摘みに、産声あげし快男児、昭和の御代まで名を遺す・・・」この文句は丸七の島 政雄さんの作詞であって、このため虎三の浪曲ともども都津浦々まで宣伝されて広まりました。
<石松の墓>
虎三と村松梢風の小説が元となって、昭和9年4月20日に四人の有志により、石松の墓を作ることになった。予算千円、全額寄付で賄う。建設地は名刹大洞院が良かろうと決まる。当時の住職橘 成典師は、「ヤクザなので,門外に作るように」ということで決まった。梢風に墓碑銘をかいてもらい、昭和十年五月、小笠原長生氏が臨席して供養をおこなった。昭和28年浅野哲禅師になってから、清水次郎長の碑も隣に建てた。
都田に吉兵衛の後裔で鈴木伝作という人がある。その祖母が吉兵衛の従兄弟であって、よく事情を知っていて話してくれたと言う。
石松が金毘羅参りの帰途、大津の鎌太郎から託された次郎長亡妻への香典25両を奪おうと、弟常吉・梅吉と共謀して、松沢の谷で水を飲む時に殺そうとしたが、石松は水を飲まない。そこで、積志の大瀬まで案内して用水路で殺したという。昭和30年8月8日、石松不迷成仏の塔婆をもって、石松の墓前に額づいて和解をはかった。
<事実の探求>
昭和十年頃に役場に問詰出身の代書人がいたが、頑として語ってくれなかった。ヤクザが家から出たことの恥じらい故か。
<近所の人の話>
江戸末期、森は全国屈指の繁盛地で、遠国から出稼ぎに来る人も多く、森の住人になった人も多い。三河の人で、問詰の高木家に寄寓した人が、郷里の不幸で帰郷しようとした時、路銀がなく連れ子を質に帰った。その孤児が石松だというのである。死骸が問詰に帰ったとき、裏に捨てて後でこっそりと片付けたという。
<静岡の旅館・伝中屋女将の話>
静岡市人宿町にある。次郎長の一の子分大政(尾張の下級武士)の長女。「片目で背が低く、太っていて、石と言って、律儀者で、気軽に動くので女中代わりにつかっていた」と
話してくれた。これにそっくりの人が問詰にいて、石松の隠し子ではなかったかという話を後年耳にした。黙秘権を使った人と符合する。
<天宮の新屋の虎蔵。新虎>
新屋の虎蔵こと新虎が、天宮神社の祭りの日に迷子になっていた石松を拾い育てたという説もある。この虎蔵は次郎長と結んで、黒駒の一味と鎬(シノギ)を削った。石松は山梨の巳之助の子分の重五郎に拾われ、新虎に助けられ、次郎長の子分になった。(略伝 森の石松)
ヤクザの話は隠されているので、分からないことが多く、口伝に寄らざるを得ない。
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