日本でお茶が飲まれたのは、記録によれば、聖武天皇の頃に飲んだという記録が
残ります。凌雲集という書物(810)にも院裏満茶畑ということが残されています。
後鳥羽上皇の御代千光国師(栄西)が、建久年間(1191)に唐から帰国するときに
茶種を江南の地からもって帰り、筑前の背振山にまいたとあります。その後明恵上人が
山城の國の栂の尾で、抹茶の製法を伝えたと記録があります。それでは、森の茶は
どんな歴史をたどってきたことだろうか。
物の本によれば、明応年間(1492〜)に初めて種が蒔かれたと記録があります。そし
て、寛文13年(1673)の検知帳には、上、中、下畑とありますので、少なくとも
300年以前から栽培されていたのは間違いないが、一般住民の需要を満たすまでは、
生産量はまだ多くはなく、他地域から買い入れていたようです。中町の住人で、村松
吉平(角吉)さんは、幼くして横浜の茶商山城屋に奉公し、商いを学び、のちに横浜
で独立して茶の売買をはじめ才覚により業績を伸ばしていました。向天方の野尻甚十
郎さんは吉平さんの親戚で、吉平さんから将来お茶が商品として有望なことを聞き、
山林を開墾して7反の畑に茶の木を植えて茶園を作りました。これが森町における
計画的な茶園作りの始まりでした。以降、森町の茶園が拡大し明治14年(1811)頃に、
物価が上がって、賃金も上がると茶摘や製茶加工費が上昇して、茶の販売しても利益が
見込めないようになり、茶園を捨てる人も沢山いました。その後、滋賀県の甲賀土山へ
森町の規模の栽培では採算が取れないよというアドバイスを受けて、現地を視察した。
甚十郎さんは、見学をして茶の木を畝にして、刈込をしていることを知り、さっそく
自分の茶園を改良。これが近代茶園の圃場作りの始まりです。明治15年ごろになると
県下一斉に同様な整備を進めることになりました。明治17年(1884)森町茶業組合
ができて、共同研究ができるようになりました。明治40年ごろになると、共同製茶も
盛んになりました。川久保共同製茶等がその模範とされました。また、茶の再製も町
内で行われるようになりました。(続)
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