本日、夕方所用で町中を歩いていて見つけました。
上新町と報徳運動 新町
森村は、慶長九(一六〇四)年の検地によって「森町村」と命名された。これより
四十三年後、正保四(一六四七)年に森町村など一万石を支配した大名山口備前
守重恒の時,代官小澤善兵衛らによって、上新町と下新町が町割りされた。
「森新町屋敷帳」(北島家文書)によれば、長さ百一間(182メートル)横二十六間(約
47メートル)で、家数は東側二十一軒、西側十八軒、総石高四石四と三合三夕で、こ
の年の十一月に検地が行われている。
東側を東町と称し、免責五反六畝二十一歩、三間半から四間の間口屋敷で、奥行
き八間の最短から最長二十二間であった。また西側西町は面積四反四畝八歩で、
弥兵衛の間口八間、奥行き十六間の四畝八歩(百二十八坪)を最大屋敷とし、殆ど
は間口四間に奥行き十二間〜十八間の二畝十二歩(七十二坪)ほどの町割り屋敷
であった。
町割りから約三百七十五年を経過し、当初より連綿と材許する家はさだかではないが
十四代〜十五代を数える家があるとすれば、「持ち新町屋敷帳」の時代から続く根っ
からの新町の旧家となるであろう。
幕末から明治にかけて、全国的に報徳運動が盛んとなり、これを基として家をお輿し
、地域農村を建て直そうとした。遠州報徳の先駆者七人衆のうち二人がこの新町に
居た。それは新村里助と中村常蔵であった。森町の報徳実践の大成功者鈴木藤三郎
(大日本製糖創業、台湾製糖初代社長)は常に郷里森町の発展を思う日本を代表する
起業家であり糖王となった人物である。この藤三郎の妻「かん」も、新町安間熊重家の
生まれであった。
平成27年12月 森町・森町教育委員会
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