訴訟書類・特別送達について
弁護士 岡本 哲
「郵趣」2016年2月号の魚木先生の記事では震災切手の訴訟書類使用例が掲載されていた。
2012年に書いた訴訟書類・特別送達に関する記事を再掲する。
民事訴訟法でも梅本先生のぶあつい基本書とかだと、送達にもページをとっているが、学生用の教科書ではあまりページをとらなくなっている。簡単に日本における郵便をつかった送達についてふりかえってみたい。
訴訟書類郵便とは、主として司法機関の差出により民事訴訟法・刑事訴訟法・行政裁判法等による訴訟書類等を郵便によって送達し、その送達の事実を差出人に証明する制度である。受取人が受領を拒否できないことが通常の内容証明郵便とは異なる。
民事訴訟の場合は訴状・呼出状・判決書・和解調書などが、刑事訴訟の場合は起訴状・呼出状・判決書など、審判手続の場合は決定書などが送達された。訴訟書類という名称であるが、「訴訟」書類でないものも送達されていた。
特別送達は、主として司法機関の差出により民事訴訟法・刑事訴訟法等よる方法によって送達し、その送達の事実を差出人に証明する制度である。
訴訟書類は1891(明治24)年から1947(昭和22)年までおこなわれ、特別送達は1948(昭和23)年からはじまり、現在にいたっている。
1891(明治24)年1月1日に民事訴訟法が施行され、同法136条により「裁判所書記は、訴訟書類の送達を執達吏に委託すると共に、郵便によっても送達できる」旨が定められた。そして、公達第237号による「訴訟書類郵便送達手続」が1991(明治24)年7月1日に施行され、訴訟書類郵便制度が設立された。1897(明治30)年6月には、海員審判所の審判用書類についても訴訟書類郵便送達手続によって送達できるようになった。
また、1909(明治42)年11月1日には「特許審判書類特別取扱郵便規則」が施行され、特許法・意匠法・商標法・実用新案法に基づき特許局から送達される審判、抗告審判又は権利確認の査定に関する書類等についても郵便による送達の取扱いが開始された。
1923(大正11)年1月11日に「特許審判及び審査書類特別取扱郵便規則」が施行され、第1号審判書類と審査書類に名称変更された。
1929(昭和4)年10月1日には新たに「訴訟、審判及び審査書類郵便規則」及び同郵便取扱規程が施行され、訴訟書類と審判・審査書類の郵便送達に関する規則が統合された。この規則を規定している法律は民事訴訟法、刑事訴訟法、陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法、行政裁判法、海員懲戒法、特許法、実用新案法、意匠法、商標法である。
1938(昭和13)年5月1日に郵便規則が改正され、10種に分かれていた郵便関係規則が統合された。訴訟、審判及び審査書類の根拠省令も郵便規則にまとめられた。
新たに、破産法や和議法の書類も郵便送達の対象となった。
1947(昭和22)年5月3日に昭和憲法が施行され、司法改革がなされた。法域が6カ所あったのが内地に1つとなり、外地の司法機能は廃止され、大審院は最高裁判所となった。そして、家庭審判所・家庭裁判所制度が新設された。
1948(昭和23)年1月1日には「郵便法」が施行され、「訴訟、審判及び審査書類郵便」が「特別送達」と改称された。従来、省令で定められていたものが法律として明定された。
特別送達の根拠となる法律は、民事訴訟法、刑事訴訟法、破産法、民事再生法、特許法、実用新案法、意匠法、商標法、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律、公証人法、土地収用法施行令等である。
憲法・裁判所に関する法律と訴訟書類・特別送達の関係であるが、訴訟書類は1891(明治24)年から開始された制度であり、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法・1890年(明治23年)の裁判所構成法をうけたものである。訴訟書類郵便は1948(昭和23)年に特別送達に受け継がれかたちで終了した。明治憲法・裁判所構成法とほぼ運命をともにした制度である。特別送達は2012年現在もつかわれている。特別送達は昭和憲法・裁判所法とともにあるといえる。
訴訟書類・特別送達は、内容について裁判所書記官が公証し、訴訟書類・特別送達・内容証明・配達証明は送達について郵便局職員が公証する制度であり、日本及びその関連地独特の制度である。
このような下級官吏がなぜ公証できたのか。(かえりみるに、一般的に公証人は法曹のエリート層がなっている)
それをささえた社会的条件とはなにか。
まず、郵便局員が公証可能であった理由は何であろうか。
その下部構造として江戸時代以降、内地では郵便でも運輸でも事故がすくなく信頼して使われていた。現在でも現金書留がある国は世界でも珍しい。
内地では1871年の時点で1000年のあいだメンバー固定制の安定した農耕社会が築かれ、17世紀半ば以降戦争もなくなり、他民族による征服もなく、犯罪の少ない持続可能な生活が続いていた。
外地については、内地のような1000年間のメンバー固定の安定した社会はない。植民地の発展にともない日本の官吏による郵便局の制度が整うと訴訟書類も利用されるようになっていく。植民地発展段階では試験登用型給与国家支給型長期安定雇用の近代的官吏が実権をにぎるようになっており、メリットクラシーによる汚職のすくない官僚制度が機能していた。
司法の郵便利用であるが、日本の場合は司法の独立の際に近代的郵便制度が信頼できるかたちで存在した歴史的経緯もある。大航海時代・産業革命による取引の高度化・司法の発展が郵便制度より先行した英国では当事者主義による送達が用いられ、ドイツでは弁護士強制により弁護士の事務所への送達でまかなえるようにしていた。日本では弁護士制度の未発達もあり、当事者本人へ送達する必要があるため、職権送達のうえで郵便による送達が主流になった。執行官送達の10分の1程度のコストであったと推測される。
明治に先立つ江戸期の社会について
江戸期・明治期を通じて戦乱のない生産性の高い密集型農耕社会であり。定住性が強く個人は人別帳として寺社等で管理され、相互監視もつよく、犯罪の少ない社会が築かれていた。
通信については、250年間の平和、手紙のやりとりによる年貢米の管理のため書類のやりとりに関して控えをとる慣習が成立し、各宿ごとに信頼できる飛脚の通信網ができていた。市民の移動は原則として自由ではなく民衆の9割ちかくが土地に定着した農民であったため民衆による自治が機能しており治安はまもられていた。識字率も高く、犯罪者などだした場合一族の恥として子子孫孫まで伝えられるとおそれられていた。
明治期には地方名望家を郵便局長にしたうえ搬送ルートが確立したため、郵便事故は家の恥とされ、不祥事はすくなかった。
また、識字率が高く郵便局の下級職員でも字をよむことができたこと、明治期の配達夫は試験採用のため仕事に対するほこりがあったこと、そのため公証業務等の分掌も可能となった。
このため配達証明・引受時刻証明・訴訟書類・特別送達の送達に関する公証機能をなしうるマンパワーがあったわけである。
農耕国家で密集したなかで、人々の移動がすくなく、犯罪者がでると一族郎党の恥とする考えかたは江戸期以降今でもいきている。
郵便官僚のなかには特定郵便局が世襲可能だったため、世襲的なグループも存在する。
そして、つとめあげた人々は褒章などの栄誉がまっていた。
岡山県岡山市には逓信博物館分館の坂野記念館がある。これは100年以上前の岡山県出身の郵政官僚である。一族で栄誉をたたえられることも立派な仕事をするインセンティヴになっていたと思われる。
日本及びその植民地独特の制度である訴訟書類・特別送達はなぜ生じ、なぜ現在におけるまで支持され続いているのであろうか。
いずれも諸外国にくらべて安価な公証システムであり。不祥事はほとんどないものである。精確さは日本や韓国・台湾の鉄道の精密な運航にも比肩しうるものである。
これを可能にした社会的背景については既に述べたとおり構成員のいれかわりのすくない安定した社会と汚職のすくない官僚機構の存在がある。
また司法との関連においては、郵便制度が司法権に先行した偶然もあった。
司法省・裁判所の名称は1971(明治4)年からあるが、このアイテムが2012(平成24)年現在最古である。明治維新前まで行政から独立した裁判所というものはなかったからであり、裁判所差出郵便を訴訟書類のフォラランナーとみている。1868(明治1)年の明治維新を日本の国民国家成立として考えるとフランスに続く世界で2番目の国民国家となる。
日本の場合は1民族1国家であり、言語的統一は1000年以上にわたっている。イタリア半島のヴァチカンをのぞく統一は1870年、ドイツの統一は1871年であるから、すこしだけ先んじている。国民国家はフランス革命の産物であるが、フランスでも、それに先んじる300年近い国土統一期間があった。アンリ四世が宗教戦争をおさめたナントの勅令が1598年、徳川家康が勝利をおさめた関ヶ原の戦いが1600年である。地方の行政組織の一部というのが封建社会における司法の位置づけであった。
近代的司法は国家独占・地方行政から分離を特徴とする。この特徴を完備した近代的司法制度は日本では明治期にはじまる。1868(明治1)年までは、司法が行政から分離されず、各藩でおこなわれていた。
ただ、江戸期の安定した時代に国民意識が形成され、前述のとおり、世襲の賄賂をとらず職務を忠実におこなう官僚層が形成され、それが官僚として信頼をおかれることとなる。世襲であれば賄賂は将来にわたっての子孫の地位を危険にするわけであり、賄賂も不正もなしえないことになる。
また、藩の財政窮乏化のなかで不祥事をおこした役人は処分されやすかったという役人監視が実効的であった。
世界的に類をみない裁判所の下部職員が公証業務をおこなうことはこれらの官吏に対する信頼に裏打ちされた制度であり、これは日本及びその関連地域以外ではみられない。
この賄賂をとらない官僚群と安全な逓送経路の利用により、下級官吏による効率的な公証が可能となった。
江戸期の書記官
現在の裁判業務にあたる書記は、江戸期では実質的に判断をなして起案して奉行に上申する下級管理として発達しており、世襲の名誉ある地位としてつづいていた。
それらの官吏に汚職等は考えられなかった。
江戸期の刑事法 犯罪抑制
江戸期の犯罪捜査の過程では一族郎党に嫌疑内容が知られてしまうわけであり、狭い安定した世界のなかでしか生きられない人々にとっては犯罪抑止効果のおおきいものであった。
また刑罰も現在と比較して過酷なものであった。
犯罪捜査の端緒は被害の届出や告発・風聞等で密告の奨励もあった。
捜査機関は江戸では町奉行、火付盗賊改配下の与力・同心であるが、実際は同心の私的雇人である目明(めあかし)・岡っ引きが主力であった。私的役人にとっては手柄をあげるインセンティヴがある。
犯人捜索の方法として親族及び町村役人等に捜索義務を負わせる尋(たずね)があった。期限付きの捜索義務を日限(ひぎり)尋という。この期限内に御尋者を探し出せないときは捜索義務者に過料・急度叱等の刑罰が科され、あらためて永尋(ながたずね)が発せられた。これは無期限の捜索命令ではあるが実際は捜索打ち切りにちかい。出頭しなかったら親戚等に災いがおよんだわけである。
被疑者は強制逮捕のほか差紙によって奉行所への出頭を命じることもあった。明治期にも被疑者の捜索及び身柄確保は江戸期の延長として家族からの聞き取り等が重視されたため家族への波及をおそれて犯罪率は低かったとおもわれる。
強盗・殺人についての重罪は先進諸国の10分の1以下を日本は近代を通じてキープしている。
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