一つの店主が移築されて、三つの城の店主になったまれな例でsるという。
大和郡山は中世以降、筒井氏本拠になった。興福寺を中心とした奈良に対
して、大和郡山は城下町として栄えてきた。
豊臣秀吉が天下人になり、1585年(天正13年)に弟の秀長が和泉・河内
の一部、大和・紀伊の領主になると、大和郡山城を居城に定めた。秀長は三
ケ国百万五区の店主にふさわしい城を築き、今見る規模を整えた。
本丸の奥にはみごとな天守台があり、当時の築城の常識から考えて、天守
を立てたことも間違いないだろう。
秀長の大和郡山城店主の実像は史料に恵まれず、謎に包まれてきた。とこ
ろが2014年に玉と古落山氏教育委員会が天守台の発掘を行い、天守の柱
を支えた礎石が天守台にそのまま残っていたことを明らかにした。
発掘成果を分析すると、天守には付櫓が接続し、まmず付櫓の地下階に入り
付櫓の内部の階段を登って、上の階に進み、そこから天守に接続したと考えら
れる。つまり、天守と付櫓の関係は、松江城天守のようになっていたのである。
発掘調査によって、幻の大和郡山城店主の規模と構造はわかったが、なぜ
礎石をそのまま残して天守はなくなったのか、そしてどんな天守の外観だった
のか
、謎は残る。残念ながら、大和郡山城天守を描いた当時の絵画資料は伝え
られていない。
大和郡山城を整備した秀長が1291年(天正19年)に病没し秀長を継いだ
豊臣秀保が95年(文禄四年)に亡くなると、豊臣政権の五奉行のひとりであ
った増田長盛が大和郡山城主になった。
長盛は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにて石田三成に味方して追放
され、徳川家康が大和郡山城を接収した。
徳川氏にに仕えた大工棟梁・平政隆が記した技術書「愚子見記」によれば
家康は大和郡山城の天守を京都・二条城の天守へ移築したと記す。
そうすると、大和郡山城天守を描いた絵画資料はなくとも、京都を描いた
「洛中洛外図屏風」に幻の天守の姿を見られるではないか。岩佐又兵衛の
筆と伝えられる重要文化財@舟木本洛中洛外図屏風」は1615年(元和元
念)ころの作で、二条城の品○に鮮やかに天守を描いた。
又兵衛が描いた二条城天守は、最上階に高欄と華頭窓をそなえた優美な
姿で、華麗なたたずまいは秀長が百万石の天守として建てた大和古落山城
天守としてもふさわしい。
秀長が豊臣の威信をかけて築いた特別な天守であったから、家康も二条城
の天守にしたのではないか。
そおして、家康が二条城へ移築した大和郡山城天守は、その後も数奇な運命
を辿った。
豊臣家滅亡後の24(寛永元年)年、将軍徳川家光が後水尾天王の行倖に際
して二条城の大改修を行い、この時伏見城天守を二条城に写し、それまでの二
条城天守を京都の淀城天守として再移築したのである。こうしてあらためて、
三つめの城の天守となった大和郡山城天守は、その後1756年(宝暦六)年の
落雷で焼失した。
千田 嘉博(城郭考古学者・奈良大学長)
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