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2013年12月30日19:04

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二人のヨシコさん

『李香蘭』舞台化 李香蘭本人は満州帝国礼賛懸念し当初慎重
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=2580082

『 二人のヨシコさん 』 ― 李香蘭伝 ―

安倍ちゃんが靖国神社に参拝したとかで、お支那様とか、
カンケー無ぇ隣国のちょん公まで喧しいw
今日は、年末SPとして、中国と日本の狭間で数奇な運命に翻弄され
波乱万丈の人生を生きた一人の歌手のお話をしてみたい。

かって、南はインドネシアからベトナム、タイ、マレーシア、支那、朝鮮、台湾、
日本を席巻した幻のスーパーアイドルがいた。初代アジアの歌姫と言ってもいいだろう。

そのスーパー・アイドル歌手の名前は 『 李香蘭 』。 伝説の歌手である。

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アテクシが、始めて李香蘭の名前を耳にしたのは、アテクシがご幼少のみぎり、
フジテレビの「3時のあなた」を見ていて

「母ちゃん、コノ眼のキッつい司会のおばちゃんはなんていう人?」 と聞いたとき、

母は キャスター山口淑子さんのことを、

「 李香蘭 」 と答えた。

アテクシは、「え?この人、支那ぢんなの?」と聞き返すと

「色々とあったのよ、、この人も…」と面倒くさそうにはぐらかした。

父は、「…李香蘭かぁ、、、」と遠い眼をした。

アノ年代の方々には、特別な感慨とともに記憶されている名前だったのかもしれない。

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【戦前、二大美人スターとして並び称された原節子と李香蘭】
奇しくも、彼女らは同じ年で仲もよく現在93歳。二人ともご健勝であられる。





李香蘭の物語は、今でも劇団四季のミュージカルを始め、映画、
テレビドラマ、伝記などで数多く紹介されている。
ご存知の皆さんも多かろうと思う。

それは、彼女が中国人と日本人の二つの顔を持ち、日本の中国侵略に利用されるという
不幸な時代の辛酸を舐めた生き証人だからだ。
李香蘭は日本と中国の不幸な時代を物語る、決して忘れてはならない歴史の偉人と
言っても過言ではないだろう。
映画、ドラマ、伝記などで有名な「男装の麗人、川島芳子」(1907−1948年)とともに、
歴史の波に翻弄された2人のヨシコさんがいたことをを忘れてはならない。


【 李香蘭 】
戦前の中国(中華民國)と満州國、日本、そして戦後の香港で李香蘭
(りこうらん、リシャンラン、Lee Hsiang Lan)こと、
本名:山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - )は、
大正9年(1920年)2月12日、満州(現・中国東北地区)の炭鉱の町・撫順で生まれ、
奉天(現在の遼寧省の省都・瀋陽市)と北平(現在の北京市)で育った、
国際的女優・歌手。
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本籍は、佐賀県北方町。国際的歌手、女優、政治家。本名:大鷹淑子(旧姓:山口)
戦後の米国ではShirley Yamaguchiの名で映画、歌などで活躍した。

終戦を上海で迎えた彼女は、漢奸(中国人として祖国を裏切った)容疑で
中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、
漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。

帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、
アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、
1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。

そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者として
マスメディア界に復帰。 1974年(昭和49年)3月まで務めた。

後に1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間は、参議院議員をも務めた。
 
2013年末現在93歳。今でも美しく健在である。


【撫順】
李香蘭の出生地である撫順は中国北東部(旧満州)の有名な石炭の産地。
出身地の瀋陽は中国北東部の中心都市で、満州国時代は奉天と呼ばれ、
日本との歴史的な結びつきは深い。瀋陽と撫順間は高速道路で約30分。
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【蘇州】
李香蘭の歌に出てくる蘇州は東洋のベニスと言われる水の都。
上海と南京の中間位の所にある。


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山口淑子の父・文雄は南満州鉄道(満鉄)が経営する撫順炭鉱の社員に
中国語を教える仕事をしていました。
親中国的であった父親の方針から、幼い頃から中国語に親しんだ。
小学生の頃に家族で奉天(現:瀋陽)市へ移住し、
その頃父・文雄は瀋陽銀行総裁の李際春将軍と親しくしていた。
父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍
(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分(乾女兒)となり、
「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。

その後、のちに天津市長になった潘毓桂とも義理の娘として縁を結んだ。
中国の旧習では、元来縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があった。
これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、
それぞれの姓でお互いの子女に名前を付け合うなどのものである。
淑子も父の北京語の授業を炭鉱社員と一緒に受け、
幼くして日本語、中国語のバイリンガルになっていた。


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【グッド(上向き矢印)李香蘭の幼ななじみのロシア人のリューバちゃん】

その後、奉天に住む幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリューバの母からの紹介を受け、
亡命オペラ歌手白系ロシア人と結婚したイタリア人オペラ歌手の
マダム・ポドレソフのもとに通い、ここで声楽を習うようになった。

1934年(昭和9年)、淑子は「潘淑華」(潘毓桂としての義子名)の名で
北京のミッション・スクール(翊教女子中学)に入学し、
1937年(昭和12年)に卒業した。

ポドレソフの指導で声楽の才能を開花した淑子はステージに立ちラジオ出演もする。
1938年女学校を卒業した淑子に長春(旧新京)にできたばかりの満州映画協会(満映)から
誘いの声がかかった。
満映の理事長であり、関東軍の謀略工作参謀である甘粕正彦大佐が、中国人として育ち、
日中両方の言葉が堪能で歌唱力があり、しかも表紙写真の通り絶世の美人である淑子に
目を付けたのは当然の流れだったのかもしれない。

日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌から、
奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、
日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映畫協會(満映)から
中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。

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 かくして、山口淑子は「日本と満州の親善のため」との美名に従い、
18歳で女優・李香蘭となったのであった。
李香蘭は中国人女性の代表として日本人男性代表の長谷川一夫などと共演し、
日中のラブ・ストーリーを描く映画などで瞬く間に満映のトップスターの座に駆け上がった。

李香蘭は1943年までの6年間満映が企画する、日本を礼賛する映画に中国人女優として出演。
映画挿入歌で今も歌われる「夜来香(イエライシャン)」はアジア全土で大ヒットした。

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映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。
そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から
中国人スターと信じられていた。
中国人は殊の外、このエキゾチックな風貌の少女を、「楊貴妃の再来」、
「愚美人」も斯くあらんと絶賛した。
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また、この頃「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた元清朝の皇女・川島芳子との親交があった。
上海で、日本人として生まれ中国人となった李香蘭と中国の王朝の皇女として生まれ
日本人・川島芳子となった2人のヨシコの数奇な運命が交差した。
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日中戦争中には満洲映畫協會の専属女優として日本映画に多く出演し人気を得た。
人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した。

1941年(昭和16年)2月11日の紀元節には、来日して
日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。
大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を七周り半もの観客が取り巻いたため、
消防車が出動・散水し、群衆を移動させる程の騒動であったと伝えられている
(日劇七周り半事件)。
日本初の外タレ?スーパー・スターLIVE公演である。




1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた
長編時代劇映画『萬世流芳』(151分)に、林則徐の弟子・潘達年の恋人(後に妻)役で主演した。この映画は、中華電影股份有限公司、中華聯合製片股份有限公司、
満洲映畫協會の3社による合作で、阿片戦争敗北100周年記念に作られた映画であった。

中国全土で映画が封切られるや、劇中、彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と
挿入歌「戒煙歌」も大ヒットした。
この映画『萬世流芳』は、中国映画史上初の大ヒットとなったのである。
また内容は、阿片戦争の相手国であったイギリスを当時の日本に見立てて、
中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった。人民懐柔政策いわゆるガス抜きである。

『萬世流芳』の大ヒットにより、中国民衆から人気を得た李香蘭は、
上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。
当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、
父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、
「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。
それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた。

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この記者会見が終わり掛けた時、一人の若い中国人新聞記者が立ち上がり、

「 李香蘭さん、あなたが『白蘭の歌』や『支那の夜』など
一連の日本映画に出演した真意を伺いたいのです。
あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。それなのに、
なぜあのような日本映画に出演したのですか?
あなたは中国人でしょう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか?」

と質問した。 これに対し、彼女は、

「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。
今は後悔しています。あの映画に出たことを後悔しています。
今後、こういうことは決して致しません。どうか許してください」

と答えるやいなや、記者会見会場内からは割れんばかり大きな拍手喝采が沸いたという。
彼女は当時中国人にとって現在のAKB48なぞ軽く凌駕するアイドルだったのである。


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「五大歌后」時代、左から白虹、姚莉、周璇、李香蘭、白光, 吳鶯音(1940年代)

記者会見と前後して、上海の百代唱片公司で収録した「夜來香」「恨不相逢未嫁時」
「海燕」「防空歌」等がヒットした。
このうち「防空歌」は、中国人の祖国防衛意識をかきたてた。

また、大戦末期1945年(昭和20年)6月23・24・25日に上海・静安寺路(現・南京西路)の
大光明大戯院Grand Theatre(現・大光明電影院)で行われたリサイタルでは、
ヒット曲「夜來香」を含む中・日・欧米の歌曲等が披露され、観客の喝采を浴びた。

そして人気の勢いは留まる事を知らず、李香蘭は、周璇、白光、姚莉、呉鶯音らと共に、
上海灘の「五大歌后」の1人に数えられた)。
それまで、李香蘭は満洲国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』と、
その主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」、
そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」等のヒット曲により、
当時の中華民國でも不動の人気スターとなった。



『萬世流芳』の後、『香妃』という映画が企画されたものの、
撮影開始前に終戦を迎え、上海での映画出演は1本になってしまった。
また歌に於いては、1945年(昭和20年)にカップリングで吹き込み発売された
「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の曲となってしまった。

この様に、李香蘭は中国人の中でも人気スターであった一方、
反日中国人達からは日本帝国主義の片棒を担ぐ「売国奴」と言われ非難されていた。



【終戦】



1945年8月15日、彼女は上海で玉音放送を聞いている。
李香蘭は映画『支那の夜』(中華民國では『上海之夜』)をはじめ、
『白蘭の歌』『熱砂の誓ひ』の中で、
「抗日から転向し日本人を慕う中国人女性」を演じていた。
また、中国語で「夜來香」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「海燕」等のヒット曲を出したり、
愛国映画「萬世流芳」に出演し、「賣糖歌」「戒煙歌」をヒットさせたりしていた関係上、中国人と思われていたため、
日本の敗戦後、中華民國政府から売国奴(漢奸)の廉で軍事裁判にかけられた。
終戦の安堵も束の間、中国軍に逮捕され「中国人でありながら
日本軍に協力した漢奸(売国奴)」の容疑で軍事法廷に立たされたのだ。

李香蘭は銃殺刑が宣告される寸前に古い戸籍票で日本人、山口淑子であることの証明に成功し、処刑を免れた。
李香蘭は来週、上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろうなどという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かと思われた。
しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、李香蘭は銃殺刑が宣告される寸前に北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ
古い戸籍票によって日本人、日本国籍の山口淑子であることの証明に成功し、処刑を免れた。漢奸罪は適用されず、国外追放となった。

無罪の判決を下す際、裁判官は、

 「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから
日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。

しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。
それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。
法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える 」

と付言を加え、

李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した。

この法廷の中国共産党の軍事裁判官もまた、李香蘭の熱烈なファンだったという…


1946年(昭和21年)2月28日、李香蘭と似ても似つかぬように化粧を落とし、
もんぺ姿で日本への引揚船に乗船しようとしたが、
中華民國側の女性出入国管理官に李香蘭と見破られ、
再度収容所に連れ戻されてしまった。
それから10日後に誤解は解け、1ヶ月後の3月末に今度こそ中国を出国できることになった。

李香蘭は乗船するや否や一旦はトイレに身を潜めたが、
船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、
船内のラジオ放送から聞こえてきた。それは、奇しくも自分の歌う『夜來香』だった。





【戦後】

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戦後は日本映画に復帰した李香蘭は、山口淑子と名を改め、第二の人生を歩き始めます。
アメリカのハリウッドに渡り女優を続け、シャーリーヤマグチと名乗り映画にも出演しました。

香港の後にブルースリーを生み出す最大手映画会社ショー・ブラザースからも乞われて
何本か香港映画に出演し、中国でも李香蘭は蘇りました。
しかし、彼女が本当に行きたかったのは香港ではなく、奉天や上海、北京だったのかも
知れません。

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1951年に世界的彫刻家、イサム・ノグチと結婚、1955年離婚、
1958年外交官大鷹弘と再婚し映画界から引退する。
1969年にはフジテレビの「3時のあなた」のキャスターとして人気を博し
1974年から1992年まで3期18年間、参議院議員として世界平和や環境問題に尽力した。

引退記念映画は友人の原節子が仕切り、当時の東宝映画スターが総出演する
盛大なミュージカルとなりました。三船敏郎、池辺良、森繁久弥、原節子他
現在の大御所、草笛光子さんですら、チョイ役だったくらいです。



【グッド(上向き矢印)引退映画で歌最後の夜来香を歌う李香蘭 】


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【グッド(上向き矢印)夜来香と云われる花は何種かあるが、これは月下香チューベロス】

【 夜来香伝説 】

夜来香(イェライシャン)は、中国の黎錦光が作詞作曲し、服部良一が編曲しました。
1943年(中華民國32年)に李香蘭の歌唱により上海の百代唱片公司から
発売された中国の歌謡曲です。 
中国はもとより、イインドネシア、マレー、タイ、台湾、朝鮮、全アジアでヒットしました。
やがて新中国建国の後は、文化大革命等の国情とは合わず廃れてしまったものの、
何十年もの長い時間を経て、夜来香の甘い香りに寄せた情緒纏綿としたこの歌は、
��麗君(テレサ・テン)の歌声で復活しました。

しかしそれまで、「何日君再来」等と共に、中国(中華人民共和国)政府により、
聴くことも歌うことも禁止されてしまった時もありましたが、
現在は中国大陸全土でも解禁され、今や全世界の中国人に好んで歌われる
チャイナ・メロディーの代表曲となっています。
日本で歌った歌手は、渡辺はま子、山口淑子、胡美芳などがいます。
やはり、なんといっても一番有名なのは、李香蘭が日本に帰国後、
山口淑子の名前で吹き込んだ日本語版で、
1950年(昭和25年)年1月にビクターレコードから発売されています。

なお日本語訳詞は、佐伯孝夫が行いました。
しかし、1943年に発売されたオリジナルの夜来香とは、歌詞の内容が少し異なっています。
作曲家の服部良一は、この曲を元に「夜来香幻想曲」を作りました。

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終戦間近の1945年6月、李香蘭は上海の大光明大戯院で
『夜来香幻想曲(ラプソディー)』 と名付けたリサイタルを開き、
伝説の大成功をおさめるのです。

夜来香(黎錦光 作詞・作曲 日本語詞佐伯孝夫)はいうまでもなく
李香蘭の最大のヒット曲で、戦前は李香蘭の名で、
帰国後の1950年には山口淑子として日本語の歌詞で歌い、再びヒットさせるのです。

夜来香幻想曲とはこのリサイタル最後の曲目で、
服部良一がガーシュィンのラプソディ・イン・ブルーのタイトルにヒントを得て、
夜来香にブギウギなどジャズの要素を取り入れてシンフォニックに編曲したものです。
指揮は服部良一。
演奏は当時東洋一のオーケストラといわれた上海交響楽団です。

この時期、本来なら禁止されていた敵性音楽であるジャズを演奏できたのは、
音楽に理解ある帝國海軍中川中尉のおかげでした。
 リサイタルは大成功でした。最後の夜来香幻想曲の演奏が終了すると、
熱狂した大勢の観客は立ち上がり、
ステージに向かって押し寄せてきたのです。
これには淑子や服部の方がむしろ驚いてしまいます。
 戦後、服部は笠置シズ子にブギウギの要素を取り入れた多くの曲を作りましたが、
そのキッカケになったのはこのリサイタルの成功だったかもしれません。

※ 『夜来香ラプソディー』より抜粋


今は、中国でも「歌神」と称される香港の張学友(ジャッキー・チューン)が
かって、日中にまたがる伝説の歌姫がいたことに敬意を表し、
「李香蘭」の歌として(「不行走」「秋意濃);作詞・作曲玉置浩二の「行かないで」) 
を歌っています。









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