目の前に、落とし穴があると確かな情報で知らされた場合。
どれくらいの大きさでどれくらいの深さか分からないとしたら、その道を調査しながら進む面倒を抱えるより、たとえ遠回りでも他の道を選ぶ人って多いと思う。
しかし、そこの落とし穴があるという事は、他の道にも落とし穴がない保障はないと私は思う。
誰かから聞き得た確かな情報。
これから読み取れる本当の事って実は以外に少ない。
日常生活で100%絶対に確かな情報など、あまりないと思う。
同じ現象を10人が目の前で見たとしても、取り方は10人10色で、各々の脳には各々の取り方で刻まれる。
それらを加味すれば、落とし穴を回避する為に、道を変える事がはたして正解かどうか、さらに分からなくなる。
もし、道を変えた事で万事がうまくいった場合は、最初から自分の意志で道を変えたかのように当たり前に日常は過ぎて行く。
しかし、もし道を変えた事で、尋常ではない遅れが生じたり、違う落とし穴に落ちてしまったりした場合には、せっかく正しい情報を提供してくれた人間に逆恨みをしたりするヤツもたくさんいるのではないか?
信じる事と、依存する事とはまるで違う。
信じていたのに裏切られた?
これは、自分が勝手に相手に対して思っていた感情で、実は相手は裏切ったとすら思ってない場合が多いのではないか?
信じるとは、実は、相手からどんな仕打ちを受けようが、それを享受する事じゃないかと思う。
金をだまし取られる、浮気される、反対勢力の組織に入る。
これは裏切り行為だとは思うが、そうされたら嫌だと思う人は信用してはいけないのではないか?
そうされても本望であり、それでも愛を持って接する事ができる相手に対して持つ心。
それが本当の信用ではないか?と思う。
これは、一般的な感情や、社会の常識とは、到底かけ離れた考え方だとは思うが、そこまでの精神力を持って人間と接していれば、まったく違う人生を歩めるように思う。
これを理解している事により、この先に絶対に落とし穴があるという確かな情報により、迂回せずに調査をしながら前進するという行為よりは、迂回して何の気をつけもせずに普通に前進する人の愚かしさが簡単に見えてくると思う。
結局は落とし穴が存在するという時点で、どの道も安全ではない。
それならば、前方に落とし穴があると確定している道の方が安全ではないか?
そしてさらに、その信憑性の高いはずの、前方に落とし穴があるという話がガセネタであり、そのせいで慎重な調査にせいで、時間と費用が莫大な損失が出たとしても、ガセネタ提供者を恨む必要はない。
折角、注意しながら前進する方法を身に着けたんだから、それを教訓にした新しい前進の仕方を作り出す事ができる訳なので、むしろ感謝してもいいくらいだ。
その前にどんな理由あるにしろ、最終選択は自分が行ったはずだ。
それを忘れて人のせいにするとかは、まるで無意味だ。
そう考えると人生で損などはない。
好きか嫌いかだけだと思う。
ただ得手して、人間が好きな方には苦労がたくさん待っていて、博打性が高いのでそちらの道を選ぶ人は少ない。
博打性を回避する為にあえて、遠回りの平淡な道を大渋滞に巻込まれながら進むのが一般人の考え。
どちらも悪くはないが、誰かのせいにする人生だけは避けたい。
息をするのも、仕事をするのも、飯を食うのも、すべては自分が望んでしている事だから。
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