今回の日記はかなり暗い感じになると思います。復興の為の元気が必要である今の時期にはそぐわないかもしれないので、テンションあげあげでいきたい人は読まないようにお願いします。
今回の東日本大震災でも、阪神淡路大震災でも多くの人が亡くなった。
今回の地震では1週間経ったにも関わらず未だに苦しい思いをしている人だって何十万人もいる。
苦しい時の神頼みとか、神が人類を救うとか、よく言うが、本当に神というものが存在し人間の運命を変える事が可能なのであれば、なぜ悪人だけを殺さないのだろうか?
天災も、病気も、事故も、無差別に人を殺す。
すごくいい人や、まだ何もわかってない子供を殺す。
これが天意というのであれば、神の意志など理解したくもない。
偶然に起こりうる現象に意志などないと考えるのが妥当だ。人間というのは大きな現象やあまりにも偶然的な現象を目の当たりにすると、神などという圧倒的な存在を作り上げ、それのせいにしてしまいがちだ。
だが実際は森羅万象の現象はその法則に従い、それに向かい進んで言っているだけで、それ以外に干渉するものは何もないと私は思う。
世の中で起こりうる事は全て法則に則った偶然である。だからその起こりうる現象はおおまかに予測ができる。おそらくは10億年とかいう単位で起こる現象などたかが知れており、人間が生きる100年で起こりうる現象などまさにすべて予想できると言っても過言ではないかもしれないと思う。
分かっていても人間というのは、日常の安定を選ぶ。
その不条理さは人間である故だろう。
こんな災害があったからこそ、考えさせられた。
生きるという事は何だろうか?
そもそも私の持論では生きる事などに意味などない。勝手にそうなっているだけだ。
知能というものを身に着けてしまった人間が、そういう事に意味を持たせないと不安で生きていけないから無理して後付けしただけだと思っている。
だから本来生きるなんて事に意味などない。
安心したいから全てに理由をコジつける。
みんな死ぬのは怖い。なんで怖いのだろうか?
痛いから? じゃ痛くなければ怖くないのか?
自分が存在しなくなるという事に対しての恐怖か?
こうやって考える事ができるのも、自分が存在しているからであり、存在しなければ考える事もできない。だから自分にとっては自分の存在というのはすごく大事でありスペシャルな存在なのだろう。
私は家族をバリ島に置き去りにして今、東京にいる。
私抜きのバリ島の家族の生活を想像する事が多々ある。
娘はたまに寂しがって私を探すが、それ以外ではいつもと変わらぬ日常を送っているのが目に浮かぶ。それは私がいなくてもどこかで元気にしているという安心感からだとは理解できる。
私がいないのではなく、私が死んだという設定してみよう。
当然、最初の数か月ないしは1年間くらいは大きな変化があると思う。
しかし人間というのはそうずっと悲しみ続けては生きていけない。
たぶん、みんなはいつもと変わらぬ日常を送るに違いない。
いやむしろ、私が存在しない状態でも、家族、もしくは自分が守るべき存在の人間が変わらぬ通常を送れるという事は幸せな事で感謝すべき事なのだろうなと思う。
私は今までの人生で、仲の良い友達が2人死んでしまったが、未だに悲しい気持ちはあるものの日常的にはそれを考えない。
それを一般的解釈とすると、私が死んだ事によっても、それほど世の中は変わらないのだろうなと予測できる。別に自分が死んだ事により、世の中に大きな変化が起こってほしいと願っている訳ではないのだが。
だが、それによって自分という存在は自分が思っているよりは大した事ないんだなと感じるのは事実だ。だからといって自分の命の価値を下げて考えるというのではなく、命の価値というのは自分の心であげなくてはと感じるという事なのだが。
人は早かれ、遅かれいつかは死ぬ。
その死に方を自分で選べれるような人間は幸せだと思う。
ただ自分の死によって生きている人間に迷惑をかけるような死を選ぶべきではない。
死はいつ襲ってくるか分からない。
だから、明日死んでもいいように今日をすごく頑張らないといけないなって思う。
昔の私は、『死にたくない』って思う事は、恥ずべき事で、ビビりのアホだと思っていた。
だか、今は命を大事にする事はかっこ悪いとは思わない。
”死にざま”だけは自分で決めたいな……なんて思ってはいる。
死ぬまでに、自分を大事だと思ってくれている人に自分の生き様を見せつける事ができたら幸せだと思うができるだろうか。
いつ死んでしまうか分からないけど、その日までは気合いで生きていこうと思う。
死者・行方不明者 2万人超す
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1541484&media_id=2
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