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2026年10月04日21:56

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ジリジリ日記277「モームリ」

■老後不安を解消する「夫婦のお金」の整え方…お金のプロが教える〈支出カット・収入アップ・資産運用〉のベストバランス
(週刊女性PRIME - 10月03日 06:10)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=235&from=diary&id=8973582

「老後の資金作りには三つの柱があるらしいわよ」
「教えてくれよ」
「まず一つ目は支出を減らすってこと」
「一日一食にしてエアコンもストーブも使わず風呂も一週間に一度にするってことか?」
「二つ目は収入を確保するってことみたい」
「死ぬまで働けってことだよな」
「最後のは上手に資産運用することらしいわよ」
「口座に残ってる10万をどうやって運用すればいいんだ?」
「、、、、私たち貧乏所帯には絶対無理よね」

今朝は朝から雨
せっかく運動場に自分が引いた白いラインも見事に水溜まりに沈んでいた
マイク担当の若い男の子が休みだというので30年くらい一緒にマイク担当だった相方の後輩女性に「手伝ってよ!」と強要されて少しだけマイクを握った
言葉は出ないし声は出ないしで情けないこと夥しい
10時からZoom句会だったので30分ほどで勘弁してもらった
一競技だけ参加して景品のお菓子を2袋頂いてきた
2時間ほどZoom句会をやったがパソコンのマイクが不調で困った
Windows10を11に更新できないパソコンを使っているのでマイクの音声認識がうまくいかないのが原因のようだ
次からは一応準備はしてあるWindows11のパソコンを使わないとダメかもしれない
昼からロクデナシ荘に出かけて7時半ころに戻ってきた
結局今日は一日中雨だった
明日はインフルエンザの予防接種に行くように奥さんからの指示が入っている
なか文芸用のエッセイがまだ書けていないので頭が痛い

今日の拾い言

名乗れよ、歳月。
平川克美

 春は立教大学、秋は早稲田大学で教鞭をとっていたころ、池上線で五反田まで出て、山手線に乗り換え、池袋、高田馬場に通った。週一回の通勤を10年ほど続けたが、未だに山手線に乗ることに慣れない。
かつては、毎日山手線に乗って、渋谷まで通っていた。
 1977年、大学を卒業して2年ほどプータロー生活をしていたわたしは、さすがに行き詰まり実家の工場を継ぐか、どこか会社に就職するかの選択に迫られた。学生の頃も、浪人の頃もわたしは毎日、渋谷駅で下車し道玄坂を上ったところにあるクラッシック音楽喫茶「ライオン」に通っていた。
午前中に店に入り、昼食は荷物を置いたまま、近所の「ムルギーカレー」やラーメン店「喜楽」でもやしそばを食べた。
どちらの店もいまだに健在である。
「喜楽」の向かいには「道頓堀劇場」というストリップ小屋があり、何度か、お金に余裕があるときを見計らって冷やかしに行った。ストリップの余興に、「コント赤信号」や師匠にあたる杉平助さん、今や売れっ子になった石ちゃんこと石塚英彦が出演していて、踊り子さん目当てで来ていた客がすっかり彼らのファンになってしまうのが面白かった。当時の芸人たちは、こんなアウェーな場所で、技を磨いていたのだ。
 ライオンには、素敵な女性が4名ほどでシフトを組んで働いており、わたしはその四人と顔見知りになった。そのうちの二人とは、何度かデートをしたり、手紙を交換したりした。なぜライオンに通い続けたのかは、彼女たちと会う楽しみもあったが、私には他に行く場所がどこにもなかった。
ライオンで時間を潰すために、私は詩や評論を書いた。書いている時だけは、時間を忘れて没頭できたからである。そうでもしないと、五時間も六時間も同じところに居続けることなどできない。
 わたしは結局、その道玄坂の喫茶店の裏手で翻訳会社を始めた。この仕事を30年近く続けることになろうとは、その時は想像もしていなかった。そんなわけで、仕事を始めてからも渋谷道玄坂に通い続けた。
1970年代後半から80年代にかけて、日本経済は絶好調で、とりわけ海外へのプラント輸出の攻勢には目を瞠るものがあった。プラント輸出を落札するには、大量の入札ドキュメントを翻訳して応札書類を作らなければならない。そうした幸運も重なって、わたしが起業した翻訳会社は見る見る業容を拡大し、道玄坂のオフィスはすぐに手狭になった。その後、原宿に近いファイアー通りに引っ越し、次にに宮益坂の森下仁丹のビルに移り、最後は千駄ヶ谷の明星食品の本社ビルの中に、だだっ広いワンフロアを借り切った。従業員も40名になり、売り上げもかなりの額になっていた。
 仕事は好調だったが、その頃から、何となくそのまま仕事を続けることに飽きている自分を感じていた。ちょうどその頃、友人を介して、アメリカにオフィスを作ってひと仕事しないかという話が持ち上がり、わたしは友人らとシリコンバレーに向かう飛行機に乗ったのである。
 以上が、カリフォルニアに会社を作るまでの経緯であるが、以来わたしは渋谷駅に下車することがなくなった。 アメリカの仕事を10年続けた後、仕事の拠点を秋葉原に移し、最終的には秋葉原に作った会社も畳んで、南東京のローカル線である池上線沿線に引きこもり、喫茶店を開業した。わたしの行動範囲は極端に小さくなり、通勤のために池上線に10分ほど乗る以外には、電車に乗ることもほとんどなくなっていた。
 もう、仕事以外の用事で、山手線に乗ることも、渋谷や恵比寿、原宿へ降り立つこともしないつもりだ、とSNSに書き込んだ翌日、わたしは山手線に乗り、渋谷駅で下車し、道玄坂を上ることになった。親しくさせていただいている浜田真理子さんのコンサートがあったからである。それだけなら、渋谷まで出かけるつもりはなかったが、そこにもう一つの機縁が重なった。
少し前に、講演の仕事で岡山県に行くことがあって、そのおり、岡山を案内してくれた知人から手書きのメッセージをいただいた。わたしが岡山に到着する直前に現地でコンサートをやっていた寺尾紗穂さんからで、そこには「いつかお会いできれば幸いです」と書かれていた。寺尾さんが『楕円の夢』というアルバムを出した同じ時に、わたしは『21世紀楕円幻想論』という本を出しており、楕円つながりでお互いに、数年来の知人であるような親しみを感じていたからである。この二人がツーマンコンサートをやるとなれば、行かないわけにはいかなかった。
 何十年ぶりかで降りる渋谷駅は、以前わたしが通っていた頃とは、全く違う雰囲気の場所になっていた。駅前のスクランブル交差点を渉っていると、目の前に巨大スクリーンにダンスシーンが映し出されているのが見える。道ゆく人々は若者だけで、古希のわたしは、この街では最年長ではないかと思ったほどである。
 道玄坂の雰囲気も以前とは全く違っていた。わたしの青春時代の全てはこの街に捨ててきたつもりであった。しかし、今の渋谷にわたしを受け入れてくれるものは、何一つ残ってはいないことに嫌でも気づかずにはおれなかった。
 佐々木幹郎が70年代に書いた詩の一節に「名乗れよ、歳月」というのがある。ライオンでわたしは、この詩を書き写していたはずである。道玄坂を上りながら、わたしは頭の中でつぶやいた。「名乗れよ、歳月」。しかし、何も答えは返ってこなかった。

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