■新理事長に高尾九段=経営に「強い危機感」―日本棋院
(時事通信社 - 06月24日 18:02)
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囲碁の日本棋院の新理事長に決まった高尾紳路九段(49)が24日、東京都千代田区の東京本院で記者会見し、「棋院に強い危機感を抱き、立候補を決意した。厳しい経営状況があり、このままでは存続すら危ぶまれる」と厳しい見通しを明らかにした。任期は2年。
棋院は慢性的な赤字運営と、老朽化した東京本院の売却が課題。高尾理事長は「スピード感を持って一つずつ解決していきたい」と述べた。増え過ぎた棋士の引退制度創設の必要性にも言及。「囲碁界の未来を守るため、丁寧に議論を進めていきたい」とし、子ども世代への普及にも力を入れる考えを示した。
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囲碁が経営に危機感を持つ。特に将棋がこれだけの人気を博していると、ついお隣さんの芝生が青く見えるのは仕方がない。だが、将棋界だって藤井聡太の後は崖っぷちである。囲碁が直面している問題は20年後には将棋だって直面する。
コンピュータによってチェスが打ち破られ、AIによって将棋が打ち破られ、囲碁も打ち破られた。これは大きな通過点であったらしい。今では医者も破られ、プログラマも破られ、恐らく経営者はAIによって一層される。残るのは株主だけみたいなディストピアはひとつの現実解だ。
人気という点では囲碁は既にゲームの中心にはない。特に若い人からすればタイパが悪そうに見える。一手打つのに30分などざらである。恐らくその一手を観戦中に寿命を迎えた老人だってひとりやふたりではない。結果を知らずにいくのは不幸であるが、囲碁に触れながらいけるのは幸せな事であるか。
面白かどうかでいえば、囲碁は面白い。将棋だって面白い。ただし少し壁がある。面白さの質が例えば瞬発力とか反射神経ではない。もちろん、時間に追われて指運みたいな部分もある。だがそれが主流ではない。
その意味では、囲碁も将棋も戦略シミュレーションゲームに近い。そして戦略シミュレーションゲームはやはりゲームの中での主流にはなっていないだろう。それを極限まで抽象化したと言えるのが将棋や囲碁であるから、特に囲碁の抽象化はほぼ極限と思われる、戦闘シーンさえ難しい。
囲碁ならそれでも駒をアニメーション化する事ができる。これが囲碁となると、恐らく知っている人からすれば、ある一手が城壁を築く運動であり、別の一手は相手の騎士団の中に単独で突撃するかの如しの様相があるのである。しかしこれは解説者の説明がないと難しい。どちらかといえば将棋も囲碁も仕事中に流すBGV(background video)の方が相性がいい。
将棋や囲碁が、人気を失うのはある意味で、戦後の軍事的でなくなってきたからという部分もあるだろう。戦前は中二病よろしく軍の役に立つという部分でファンを取り込めた部分も大きい。戦後はそういう点がパズル性や脳トレ的な方にシフトした。このパラダイムシフトに古いイメージのあるものは不利だろう。そもそも、伝統芸能系はどの分野も厳しい状況にある筈である。歌舞伎だって人気を博しているけど、それはテレビとの相性がいいという部分が大きい。
中國や韓国で囲碁が人気なのは、恐らく戦後のブームであって日本とは事情が少し異なる。棋士という人たちはほどんど自分の才覚だけで職業としたところがあって、その意味ではプロであるが、プロと呼ぶ場合に思い出す話がふたつある。
ひとつは、ジャンボ鶴田がプロレスに就職しますと語った件。これは少なくとも20年程度は、生活が成り立つという信頼がある職種という事である。スポーツ選手である以上、加齢によって引退や定年というものを考えなければならないが、ジャイアント馬場がプロレスにコミカルさによる試合展開を持ち込んだ事によりストロングスタイル以外の在り方を提唱した。これはプロとしては非常に有益な事だった。
それを良しとしない競技系の格闘技は、基本的にアマチュアの手弁当で成立する事になった。プロとして食えるのはごくわずか、しかもそのピークは短いという状況では、若者の夢で食いつぶすしか競技が成立しない。
その点は漫画家も同じだろう。たぶん音楽家も。アイドルや俳優も。そういう厳しい生き残りの戦いをしなければならない産業というものは確かにある。そういう産業では、場所を提供する、マネジメントをする部分だけが就職の対象である。それでも吉本興業などは比較的年を取っても生き残れるような体制として劇場を用意したりと環境整備にも注力しているように見える。
もうひとつはがんばれ元気の作中で露木トレーナーが語っていたアドバイスしていたもし負けて倒れる時は派手に倒れるんだ、その方が観客も喜ぶ、それがプロだ。プロの成立には観客がいる。そういう人たちが払ってくれたお金で成り立っている。
求道者のように道を究めたいのなら山奥にでも籠ってやればいい。だが、道ではなく、芸であるなら、それは披露したい、残したいという欲求に基づく。そしてアマチュアであるよりももっと時間を自由に使える環境が欲しいというものともリンクする。
本質的にはアマチュアの方が求道者なのである。そこには金が介在しない。プロは観客とスポンサーと金勘定が無視できない。その制限の中で芸を披露する。そういう仕事だ。人気商売とも言える。
人気で競うというのは水ものであるからどうしても時代に翻弄される。故に5年後に爆発的な人気があっても不思議ではないし、どこかの巨大スポンサーに支配されていてもいても不思議はない。
経済的に成立するかは最終的には最低でも定年までの道筋が示せる事が一つの条件であって、野垂れ死にを書いた藤沢秀行でさえ、最終的には布団の上で死んでいる。就職としての場が提供できないなら廃れてゆく。アニメがこれだけ隆盛しても今や危機的であるのは、就職先としての機能が提供できず、新しい才能がほぼ耐えているからだ。若者の夢以外に駆動力を持たない。
そしてAIの登場が、既存の産業としての就職口でなくとも別の方法で世界に披露する場を提供をしている。スタジオを持たないのに一人で映画を作る事が可能である。それをyoutubeで発表すれば映画館の観客動員数を凌駕する事さえ絵空事ではない。誰かが必ずやる。
パイが小さくなり次第に人が減少し、最終的には一子相伝になるだろう。例えば江戸時代の初めには、戦争がなくなる事による武術の衰退が見られたはずである。殺し合いの剣から武士のたしなみとしての剣に変わった筈である。柔道が柔術のままなら既にロストトラディショナルになっていただろう。
日本の囲碁が生き残るかどうかという話は現在のレベルを維持したままという問題でもある。レベルをヨーロッパ並みに落としていいのなら恐らくあと100年は残るだろう。だだし中韓の試合にはお情けでしか呼ばれない。それはもったいない、というのが関係者の実感だろう。今のレベルは相当に低くない所にある。かつ、試合の内容も相当に面白いものが提供できている。
ただ世間には届いていない。経営の厳しい伝統芸能など沢山あるし、昭和にはあった筈のものが既に絶えて久しいというものも幾らでもある。廃業した中小企業は毎年のようにあって、そこには代替品のない失われた技術もあるだろう。
面白さというのはひとつには答えがないというのが必要である。将棋も囲碁も答えがない。これはサッカーの試合に模範解答の試合がないのと同じだ。退屈な試合はあっても詰まらないサッカーなどない。AI相手には勝てなくても人間同士が戦うという点でそれは肉体労働の一種である。そしてAI以降、人間に残されているのは肉体系労働しかないのは明らかだ。
脳の能力は明け渡す事になる。肉体的、感覚的、本能的な部分だけが人間に残されたものとなる。そういう時代において、囲碁も将棋もまた肉体的な何かでなければならない。
いずれにしろ、囲碁そのものを残そうとするのは悪手だ。増やすべきは観客である。どの分野だって観客の圧倒的な数が産業の行く末を決める。ヒカルの碁が面白かったのはルールを一切しらなくても面白かったからだ。サッカーが面白いのはオフサイドなど知らなくても見ていられるからだ。ゴルフが楽しめるのは小うるさいルールなど知らなくても見れば分かるからだ。
見れば分かるという点で囲碁は若干のハンデある。それでもコンピュータを使って、盤面で何が起きているかを示せるようになって、AIで優勢表示ができるようになって、相当に何もしらなくても見られる環境が揃っている。リアルタイムのタイパは悪くても、それをショート動画にすれば十分に面白さは伝えられると思うのだが。
まだ消えるのは早い。少なくともあと200年は。
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