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2026年06月07日19:52

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ピアノマン

 若い頃に書いた小説を投稿します。

深夜、バーの地下室から美しいピアノの音色が聴こえる…。

興味のある方はどうぞ…。

それでは始まります…。




 暗雲が空一面を覆い、時折雷鳴が響き渡る。月の光も今夜は地上に届かない。黒い雲がこのアイルランドの小さな田舎町をすっぽりと包み込み稲妻を落としている。イギリス式の家が立ち並ぶこの町に一軒のバーが最近建てられた。比較的大きく造られていて中はありきたりと言ってさしつかえない造りになっている。店はもう閉められていて客は一人もいない。灯りが消され真っ暗で物音一つしなくなったバーの奥には地下へと通じる白く塗られたコンクリートの階段があり耳を澄ますと階下からピアノの音が漏れてくる。
一人の大柄な男がこの地下室でピアノを弾いている。金髪の髪はぼさぼさに乱れていて体からはち切れんばかりの白いレザージャケットを身にまとい、同じく体からはち切れんばかりに穿いている青いジーンズは所々破れてしまっている。この風体とは全く対照的な繊細で美しいその音色は聴く者を恍惚とさせる。この男の後ろにはうす緑色をした革製のソファーが置かれていてそのソファーの前にはガラス製の小さなテーブルが置かれている。
ソファーには細身で短めに刈り上げられた赤い髪をした男が足を組み目を閉じてピアノを聴いていた。水色のコーデュロイパンツに薄い黄色のスウェットという出で立ちのこの男は静寂という言葉がぴったりの雰囲気を醸しだしていて時折薄く開けられるその瞳からはナイフを連想させる鋭い光が垣間見える。
 ピアノを弾いていた男は指を止め少し歪んだ笑顔で後ろの細身の男の方を振り向いた。
「少しは気分転換になったか?」
細身の男は閉じていた瞳を薄く開けた。
「ヘラクレス君、君の選曲はさっきから僕の神経を逆撫でし続けているよ。僕は比較的ハードな曲を好んでいるんだが君はその風体に似合わずソフトな曲を弾き続けているね。まるで僕がそれを望んでいるかの様にね」
ヘラクレスは大声で笑った。
「ユダ君、二時間ピアノを聴き続けて感想がそれか。僕はてっきり君はこういう静かなのが好きだと思っていたよ。それじゃあ、例えばどんなのが聴きたいんだ?」
ユダはぼそぼそと喋り出した。
「そうだな、じゃあ、ビリー・ジョエルのストレンジャーをお願い出来るか?」
ヘラクレスは静かにピアノを弾き始めた。美しい音色が部屋中に響き始めた。目を閉じて聴いているとその繊細なメロディーはこの大男が弾いているとは誰も考えはしないだろう。
そのメロディーは音楽界の若き天才少年を連想させる。
 ヘラクレスは曲を弾き終わると静かに目を閉じた。ユダは再び閉じられていた瞳を薄く
開いた。
「これはピアノマンじゃないのか?僕はストレンジャーだと言ったんだが」
ヘラクレスはまた笑顔で振り向いた。
「俺はこっちの方が好きなんでね。君にまたソフトな曲を聴かせてしまったかな」
ユダが再びぼそぼそと喋る。
「僕はこの曲はあまり好きじゃないな。ストレンジャーが聴きたかったよ。ヘラクレス君。」
ヘラクレスはユダを見つめた。
「この曲が好きじゃないのか?このビリー・ジョエルの超代表曲を。音楽が好きなのにピアノマンが嫌い。そんな人は始めてだよ。ユダ君」
ユダはぼそぼそと喋る。
「僕はハードな曲が好きだからね。音楽学校でもほとんどハードな曲しか弾かなかったよ。
ピアノは好きだよ。でもピアノでもハードな曲を弾いて欲しいんだ」
ヘラクレスは小さく笑った。
「ユダ君、君は音楽家になりたいんだったね。ここによく来てるけど音楽の方はちゃんとしてるのか?今日も店が閉まってまだここに居るけど」
ユダはぼそぼそと喋る。
「もちろん、そこはちゃんとしてるさ。音楽家になりたいんだからね。毎日練習してるさ」
「バイオリンだったかな?」
ヘラクレスは尋ねた。
「そうだ。僕の夢はプロのバイオリニストだ。超一流のね。音楽史に残るような」
ユダが呟く。
ヘラクレスはユダの方に向き直って座り直した。
「是非聴いてみたいよ。君のバイオリンを」
 二人の間に沈黙が流れた。

 稲妻の落ちる音が聞こえる。


 ヘラクレスは何かを考えている様子だった。ユダは再び瞳を閉じてうつむいている。
ヘラクレスは再びピアノを弾き始めた。ユダの言う「ハードな曲」というものを意識したような選曲だった。先程とはヘラクレスの雰囲気が違う。ユダは瞳を開けてヘラクレスの背中を見つめていた。ヘラクレスの後ろ姿が放つオーラにユダは決して自分が近寄ることの出来ない何かを感じた。喜び、悲しみ、怒り、愛情、誇り、諦め、そんなものがごちゃまぜになった様な強烈なユダを畏怖させるオーラを。

「俺のピアノどう思う?」
ヘラクレスは演奏を中断して尋ねた。
「美しいし、上手いと思うよ」
ユダは無表情に答えた。
「美しいし、上手いか……」
ヘラクレスは天井を見上げた。
ユダは再び瞳を閉じた。
地下室は静寂に包まれ、天井に備え付けられた蛍光灯に当たっては離れ当たっては離れしている蝿の音が二人の耳に付く。ヘラクレスはピアノの椅子から降り、部屋の隅に置いてある小さな冷蔵庫から缶ビールを二本取り出してユダの隣に座った。
「飲むか?」
そう言って一本をユダに手渡した。
ユダは無言でそれを受け取り、すぐにふたを開けて飲みだした。ヘラクレスも続いてふたを開けて飲みだした。
「音楽……、音楽界……」
ヘラクレスは何かをぶつぶつと呟いている。
「十年前……、十年前……」
「指……、指……」
「潰れた……、潰れてない……、痛い……、痛くない……」
「何が……、何が……」
「どうして……、どうして……、僕の……」
「僕が……、僕は……」

 ユダはビールを飲んでいた手を止めて怪訝な顔でヘラクレスを見つめた。
ヘラクレスはまだ呟いている。
「ちゃんと動いてる……、よかった……」
「よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……よかった……」
「それは無いよ……、それは嘘……」
「嘘は駄目……、本当?」
「何が本当?本当……」
「本当……、本当……、本当……、本当……、本当……、本当……、本当……、本当……」
「悲しい……、悲しい……、悲しい……、悲しい……」
「怖い……、怖い……、怖い……、怖い……、」
「無理……、無理……、無理……、それは無理……」
「やめて……、やめて……、やめて……」
「お願い……、お願い……、お願い……」
「苦しい……、苦しい……、苦しい……」


 ヘラクレスは震えていた。
ユダは神妙な面持ちでヘラクレスを眺めていた。
ヘラクレスは震える声で話し出す。
「僕はね……、ユダ君……、僕を知らないかい?ピアノ界の……、音楽界の……、ヘラクレス……」
ユダの表情には怪訝さが増していた。
「ヘラクレス……、ピアノのヘラクレス……、音楽をする者で知らない者はいなかったね……。でも、どうして?僕が……、僕は……」
ヘラクレスの声はうわずり始めた。
「奇跡の指なんだって……皆がそう言ってたんだ……。でもね、僕はまだそこにいたんだよ……、思い切りドアを閉めやがって……、指挟まれちゃったよ……、あの医者再起不能なんて嘘つきやがって……」
 ヘラクレスは放心した様に立ち上がり缶ビールを床に落とした。缶ビールからこぼれたビールが床に広がっていく。つかつかと再びピアノの方へ歩いて行きピアノの椅子に座った。鍵盤を思い切り叩いた。その音に反応してユダの背筋がぴんと伸びた。ヘラクレスは異様な雰囲気を漂わせてピアノを一心不乱に弾き始めた。


 稲妻の落ちる音が聞こえる。


 ヘラクレスの奏でるメロディーがユダの心を蝕んでいく。悲しみ、絶望、怒り、諦め、侮蔑、憎悪、そんなものを乗せたメロディーがユダの心を侵食していく。ユダは頭を抱えて苦しみだした。頭を左右に振っていた。バイオリニストを目指したこれまでの日々がユダの頭を駆け巡る。悪夢の様な演奏は終わらない。ユダの顔から生気が抜け落ちていく。演奏は続く。終わらない。



 いつしか演奏は終わっていた。ユダは屍の様にうつむいて座っている。ヘラクレスの演奏がユダから全てを奪ってしまったかの様だった。ユダの音楽家としての自信、誇り、未来へ向かう情熱、そして、才能、資質までも。


 ヘラクレスはユダの方を振り返った。

 「是非また君のバイオリンを聴いてみたいよ」





   おわり       


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