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2026年04月28日07:27

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相馬さまのウマ の雑感

【ウマ娘】ノーリーズン激推しコラボ始まる
https://umamusume.net/archives/253281
>相馬野馬追
>相馬家の33代当主が経営してた牧場から生まれたのがクリーク

16代が伊達政宗と争った相馬義胤。豊臣政権では佐竹の与力扱いだったので、関ヶ原後に佐竹もろともに秋田送りにされそうになり、嫡男の利胤が江戸に出向いて直談判。これを本多忠勝が家康に取り次いだ結果「だったら競馬で勝負だ」という超展開。

南蛮渡来のアラビア馬に乗ってる徳川馬術指南チームに対して、利胤の馬は体格の小さな当時の国産馬。どう考えても勝てないのだけれども、忠勝が開始時に「戦場ルールでいくぞ」。

戦場ルールゆえにか、競争中に銃声が鳴ったかと思ったら、コース上に穴が掘ってあったり。銃声も穴もものともせず先に進んでいく馬術指南チームに対して、利胤の馬は大きな穴にスッポリ…と思ったら、「勝負あった。戦場で銃声が鳴ってるのなら、とりあえず穴に身を隠すのが正解。利胤の勝ち」。

もちろん単なるトンチの屁理屈なのだけれども、忠勝ひっくるめてその場の大半が判官贔屓で利胤を応援していた状況。家康もそこは空気を読む人なので「約束通り相馬は所領安堵」ということに落ち着き、これが競馬でいうところの「大穴」の語源となったとされている。

…まぁ本多忠勝の遺文にしか出てこない話だし、あまりにドラマチック過ぎる話なので、おそらくフィクションだろうけれど。実際には本田は本田でも「佐渡守」の方のツテで頼み込んだとされているし、当時の力関係を考えれば、そっちのほうが可能性高いだろう。

相馬は奥州仕置に際して三成の取次で所領安堵してもらっているので、かなりの三成びいき。利胤も元々は三成から一字もらって三胤を名乗っていた。

この後に利胤は秀忠の養女を後室に迎えているのだけれども、相馬と同じく三成びいきで有名だった津軽家にも、家康の養女が正室として送り込まれている。徳川家として三成びいき大名を取り込みたい みたいなところがあったのかなと。なぜ取り込む必要があったのかは置いておくとして。

しかし、穴馬の語源となったエピソードで知られる相馬さまのウマにしては、スーパークリークって可愛げのない成績だったよなと。良い意味で。
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