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2025年12月17日07:49

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安田作兵衛 の雑感

織田信長に槍を突いた男の“その後”――安田作兵衛の流転する牢人生活に迫る
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ef2e9d7db36978a0f7d29cb38aec7fe377eeb240
大門先生の歴史記事だけれども、また事実の羅列だけだったので、コメ欄でダメ出しされる始末。さすがに心配になる。

>明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して天野源右衛門と改名して浪人
>羽柴秀勝、同秀長、蒲生氏郷に仕えたが、仕官生活は長く続かなかった
>立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があったという

本能寺から九州平定までの4年間の遍歴。明智方だったのに豊臣系にポンポン士官できてるというのは、やはりそれだけの能力があったということだろうし、それですぐに出ていくことになるというのは、やっぱり問題も多かったのだろう。立花家を出ていくことになった経緯を見るに、そういうことではないかなと。

水野勝成が「作兵衛とは仲が良かった」と自ら書き残しているみたいだけれども、水野勝成も大概アレな人間なわけで、類友感がある。

最後に仕えた寺沢家は母親の実家で、当主だった広高は従兄弟。若き日に「どちらかが出世したら、1/10で召し抱える」という約束をしたとされていて、当時は8万石だった広高が作兵衛に8千石与えたのだから、本当に1/10で迎えたことになる。美談のようにも聞こえるけれど、旧来からの広高の家臣は複雑だっただろうなと。

作兵衛は関ヶ原より前に病死。寺沢家は関が原を上手く立ち回り4万石を加増されたのだけれども、加増された土地というのが天草。名目上は4万石だけれども、実態としてはそこまでの生産量はなし。なんとか4万石分の年貢が取れないかと色々やった結果として天草一揆が起きて、面目を失った当時の当主・堅高は自害。寺沢家は断絶。

一揆鎮圧で実績のある作兵衛がいたらどうなってたかなと思わないでもないが、そも一揆がおきてしまった時点で責任問題なわけで、どのみち没落は免れ得なかっただろうなと。
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