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2022年11月27日12:48

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【独自】河村建夫元代議士「89歳・女傑秘書」の死後、口座からカネが無断で引き出されていた…遺族が驚愕、驚きの真相《自宅まで借金の担保に》

【独自】河村建夫元代議士「89歳・女傑秘書」の死後、口座からカネが無断で引き出されていた…遺族が驚愕、驚きの真相《自宅まで借金の担保に》

現代ビジネス編集部 - 6 時間前

https://news.yahoo.co.jp/articles/eda5c2ab007f2f7dd915060da1f436677ed8c375

河村建夫といえば当選10回を誇った大物代議士(昨年10月、政界引退)。

長く秘書を務めた大物女性秘書・中内セツ子さん(享年89)の死後、中内さんの自宅が何度も河村氏の借金のカタになっていたこと、また中内さんの死後に口座から河村事務所がカネを引き出していたことがわかった。

知らぬ者はいない、58年間の永田町生活
「どうしてこんな揉め事になるのか、信じられません。河村先生に一生懸命お仕えして頑張ってきたのに、姉がかわいそうでなりません」

ここに登場する「河村先生」とは、文部科学大臣、官房長官などを歴任し、衆議院当選10回を誇る、元代議士・河村建夫氏のことである。昨年10月の衆議院選挙には立候補せず、政界を引退した。

冒頭のように苦しい胸の内を語っているのは、河村氏を初当選以来、秘書として

支えてきた中内セツ子さんの実妹ら遺族たちである。

中内セツ子氏といえば、1963年に故・田中龍夫元文部大臣の秘書を務めて以来、なんと58年にもわたって議員会館で秘書として勤務していた、永田町では知らぬ者はいない名物秘書だった。自民党のベテラン秘書が語る。

「そりゃあ、もう名物ですよ。80才を過ぎても議員会館の中内事務所に陣取っていましたからね。安倍元首相が河村先生の事務所にわざわざ立ち寄ると、真っ先に中内さんに挨拶していました。『あら、しんちゃん』って中内さんは応えていた

河村氏と中内さんはまさに二人三脚でした。田中氏の引退後、選挙区を引き継いだ河村氏の秘書に就き、河村氏を官房長官にまで押し上げたのは中内さんの手腕でもあった。

80才を超えても、元気で秘書を続けていた中内さんは、文字通り、自民党の名物秘書で、女傑のような存在でしたね。中内さんは気が強くて豪気な女性でした。河村先生と意見が違っても『先生、おかしいでしょ!』『こうしなきゃ!』と、仕える先生を説得するような人でした。

私も20年以上前のことになりますが、中内さんが河村先生に『選挙が近いんですから、この日は地元帰りですよ』と、母親が息子に忠告するような場面を今でも思い出します」

山口県選出の田中元文部大臣から地盤を引き継いだ河村氏を支えた中内さんは、58年間の永田町生活のなかで2人の大臣を生み出したことになる。

生涯現役だった中内さんは、河村氏の政治団体の収支報告書の会計責任者の欄に2019年分までサインがある。

だが、2020年12月に脳梗塞を発症し、入院。

2021年8月21日に亡くなった。享年89だった。

中内さんの実妹が証言する。

「姉は早稲田大学を卒業した後、父親の知人の化粧品会社の社長秘書として勤務していました。しかし若いときから『一生結婚しない』と家族にも公言し、もっと自分がやれる仕事があると秘書に公募した先が、田中龍夫先生の事務所でした。1000人の中から1人だけ選ばれたといいます。姉は、本当に強くて情にもろい、政治家のような人でした」

実はいま、中内さんの実妹ら遺族と、中内さんの勤務先であった河村氏との間に摩擦が生じている。

次々と担保にされた大磯の不動産
「姉が亡くなって、地元で葬儀をというときのことでした。葬儀の互助会に入っていたので、小さな会場をおさえました。すると、河村先生の事務所が『国会議員の先生からもたくさんの花が届いているから』という理由で大きな葬儀場に変更したのです。私たち親族は、ポツンと座っているだけで、姉の葬儀なのに奇妙な感じでした」(前出・実妹)

外から見ると一見シンプルで普通の家です

その後、9月には都内で中内さんの「お別れの会」も開催されたが、実妹ら親族には

一切連絡がなく、後で知らされただけだったという。

終生独身を通した中内さんは、ある資産を残していた。出身地である神奈川県大磯町に所有する敷地約100坪の邸宅である。中内さんの実妹によれば、この大磯町の家にはあまり帰ることはなく、普段は田中龍夫氏の親族が所有するマンションから永田町に通っていたという。

中内さんが亡くなり、遺族は知人の協力を得ながら、遺産相続に着手した。大磯町の中内さんの邸宅の登記簿をみて、遺族一同、驚いたという。

なぜなら、この不動産を担保にして、河村氏や田中氏の親族が金融機関から金銭を借り入れしては、返済を繰り返していたことがわかったからだ。

1995年 田中氏の関連会社名義で11億円を借り入れ(田中氏所有の不動産と共同担保)、10年後に返済完了。

2012年 河村氏名義で4000万円を借り入れて、2年後に返済完了。

2016年 河村氏名義で700万円を借り入れて、2年後に返済完了。

2017年 河村氏名義で3000万円を借り入れて、2年後に返済完了。

2019年 河村氏名義で1500万円を借り入れて、中内さんの死後に返済完了。

田中氏や河村氏は、秘書の中内さんの自宅不動産を担保に資金調達していたことがわかる。

河村氏が中内さんの不動産で借り入れたのは総額9千万円を超える。河村氏の借り入れた時期と衆議院選挙の時期を重ね合わせてみると、2012年と2017年に解散総選挙が実施されていることに符帳が一致する

この不動産登記簿を自民党ベテラン議員に見てもらうと、以下のような推測を述べた。

「衆議院選挙と借り入れ時期がほぼ一致しているじゃないか。どうしても選挙資金を調達しないといけなかったのでしょう。

2019年は安倍政権終盤でいつ解散総選挙があってもおかしくなかった時期です。河村氏の地盤である山口3区は、林芳正外相が参議院から衆議院鞍替えの動きが活発になり、それなりに資金が必要だったのではないか。

山口3区では、萩市など首長選挙もあり、河村と林の代理戦争と大きく騒がれて、いろいろ物入りだった時期だと思われます」

毎年数百万円単位の寄付
それにしても、秘書の自宅不動産を、代議士が担保にするとはどういうわけか。中内さんの遺族が河村氏の事務所に不動産の担保について確認すると、「選挙でお金が必要だったので、不動産を担保に提供してもらった」と答えたという。

秘書として、自らの財産を投げうって「親分」を支えたということだろうか。それは河村氏の政治資金収支報告書からも窺うことができる。

河村氏の政党支部「自由民主党山口県第三選挙区支部」の政治資金収支報告書には毎年のように、中内さんから数百万円単位の寄付があった。2016年に400万円、2018年には300万円、2020年には400万円とすごい金額が並んでいるのである。

前出のベテラン議員も感嘆して言う。

「ひと昔前なら、まさに秘書の鏡ですよ。中内さんは自分の資産までかけて、河村氏や田中氏を支えたのですからね。ただ今は政治資金に対するチェックも厳しくなったのでまずいけどね……」

故・中内セツ子氏(左)と若き日の河村建夫氏

コピーライト 現代ビジネス

2019年、最後の借り入れが河村氏から返済されたのは、中内さんの死後の今年6月のことである。だが返済完了までは抵当権は設定されたままだったので、相続手続きは難航した。遺族は不動産の件は不問に付し、相続も完了したという。

ところが、問題はそれだけでは終わらなかった。前出の中内さんの実妹が証言する。

「姉・セツ子は、一人の親族に、銀行の通帳の存在や口座番号などを書いた紙を預けていたのです。そこに記されているうち、メガバンクの通帳だけが見当たらなかった。河村氏側に問い合わせると、預かっているということなので、返還を求めました。ようやく戻ってきたのが今年4月のことで、河村先生の事務所の方が届けにきました」

戻ってきた通帳をチェックすると、中内さんが所有していたメガバンクの個人口座から、死後に41万7369円が引き出されていたことに、遺族は驚いた。

さらに、中内さんが社長を務めていたR社の通帳も同時に返却されたが、ここからも死後に310万円が引き出されていたことがわかった。

死後の現金の引き出しとはどういうことか。中内さんは脳梗塞を発症した2020年12月からはほとんど一人で動くことはできなかったそうだ。死後に預金が引き出されるというのは、ありえない。一体、誰が引き出したのか?

「私も姉も中内さんのおカネで大学に行った」
「現代ビジネス」編集部が、政界引退した河村氏に連絡を取ると、秘書で今年夏の参院選に出馬した長男の河村建一氏が取材に応じた。その証言は、実に驚きに満ちたものだった。

「もともと河村建夫の父親は田中龍夫先生の最側近でした。建夫は東京でサラリーマンをしていましたが、父親が亡くなると、中内セツ子さんが『山口に戻ってきて(田中先生の)後を継げ。子供の学費は私が出す』と説得して、建夫は政治の世界に入ったのです」

なんと、河村氏の政界入りは中内さんの説得によるもので、さらに家の面倒も秘書の中内さんが見ると言ったというのだ。建一氏が続ける。

「実際、私も姉も中内さんのおカネで大学まで行くことができました。『学費は仕事で返せ』と請求もされず、私は大学卒業後、就職することなく河村事務所で中内さんの下で働きました。

中内さんは昭和の豪傑な方で、いろんな財布をやりくりして、いろんな人にお小遣いをあげたり、昔ながらの方だった」

とすれば、河村氏一家は、もともと中内さんにおんぶに抱っこだったということになる。建一氏が語る。

「お金に関して、河村家と中内さんは一心同体だったのです。個人の口座にせよ、中内さんが社長のR社にせよ、その口座は両方とも、建夫の秘書である私や運転手に通帳とハンコが渡され、『今月は50万円入ってるはずだから、下ろして事務所に入れろ』といった感じで指示が出てました。R社は中内さんが設立した会社で、河村事務所の別働隊のような存在でした。

田中先生時代から文科行政に深く携わっているので、中内さんには歴代の事務次官が挨拶にくる。河村建夫ではなく中内さんに頼みに来るほどの存在でした。R社からのお金で足りない時は、田中先生が持っていた会社から借り入れるなどして、融通してもらっていたのです。

身内同士なので借用書などは作っていませんでした」

つまり、中内氏は、事務所の別働隊である会社だけでなく、自分の個人資産までをも使って、事務所にカネを入れていったということになる。これが本当ならば、もはや家族以上の存在といっていいだろう。

だが、中内さんの遺族の疑問に対してはどうだろうか。まず、大磯町の自宅に抵当権設定をして河村氏が借金していたことについてはこう答えた。

「中内さんの大磯の自宅を建夫が抵当に入れ借り入れたのも、中内さんが合意していたからです。中内さんがお亡くなりになって、抵当権設定を外そうとしたがすぐに相続人が決まらなかったので、返済できなかった」

すべて納得ずくだったというわけだ。だが、死後に中内さんやR社の銀行口座から預金が引き出されていることについてはどうか。

「大磯町の自宅の固定資産税などの税金関係や、中内さんご自身の年金や税金などが、多忙だったためか何年にも渡って滞納されていたのです。それは私が立て替えており、総額300万円以上になります。そんな感じのどんぶり勘定なので、多少は相殺しないとというのもあって、死後に口座から引き出しました。決して悪意のあるものではありません」(建一氏)

まさしく、凄まじいどんぶり勘定ぶりである。ただ建一氏はこう弁明する。

「中内さんは、おカネの問題に直面するたびに、『どうせ大磯の家売ったら、おカネができるから』とよく言っていました。中内さんのご遺族は、昭和の豪傑な秘書だったという一面をあまりご存じでないようで、疑問に思われたのでしょう。こちらもうまくコミュニケーションを取れなかった」

今も、河村氏と中内さんの遺族の間で問題は解決していない。遺族に対しては納得のいく説明が必要になろうが、それにしても、個人資産まですべて出す一心同体ぶりでは、遺族がビックリするのも当然だろう。昭和の名物秘書の豪快ぶりが残した逸話になりそうだ。
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