
〈9/7(火)本日の一言メッセージ+動画+α〉
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22217 (写真入り記事)

「信仰の行い」
聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル人への手紙11章6節)と語ります。
信仰こそが神を喜ばせることができる行為であり、応答なのです。
ユダヤ人たちは、何らかの行為で神を喜ばせると考えていました。
イエス様は、「父なる神が遣わしたわたしを信じることが神のわざであり、神を喜ばせられる行為である」と教えられました。
その聖書のメッセージを読んで、別の意味で喜んだ人がいるかも知れません。
「それは良かった、日曜日に教会行かなくても良いし、十分の一献金をしなくても良いし、伝道したり、何の行いもしなくて良んだ」と。
神を信じない心で行う業や行為は神を喜ばせることはできなくても、神を信じて行う行為は神を喜ばせることができます。
そして、神を信じたら、その信仰にふさわしい行いが自然についてくるものてす。
信仰の父アブラハムは、神の約束を信じました。その信仰によって義と認められたと聖書は記します。
しかし、ヤコブ書を見ると、「アブラハムはイサクをささげる行いによって義と認められた」と書かれています。
信仰がアブラハムを義としたのか、イサクをささげる行いがアブラハムを義としたのか、どちらなのでしょう。
両方です。セットであり、これは矛盾ではないのです。
アブラハムが、「私は神を信じます」と言ったのに、何の行いもなく、生き方が以前と変わらないとしたら、「口先だけの信仰」か、「信じているつもりで、実際は信じていない」か、「神の言葉の意味を正確に理解していない」かのどれかです。
夜遅くに、玄関の扉を叩く人がいるので、ドアを開けると、「あなたの家が火事ですよ。今すぐ逃げて下さい」と知らせてくれた人がいたら、その言ってくれた言葉を信じたら、すぐに逃げるか、逃げ残った人に知らせて一緒に逃げるか、大切なものを持って逃げるだろうと思います。
しかし、「ふーん、そうですか、わかりました」と言って、何の行動も取らない人がいるでしょうか。
信じていないか、事態を理解していないかのどちらかでしょう。
信じたら、必ず行動に移るはずです。
同じように、神を信じたら、必ず信じた内容にふさわしい行動をするはずです。
今日、自分の行いを吟味して、自分の信仰を点検してみませんか。
信仰は、必ず見える形の行いによって現れるのです。
「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」(ヤコブの手紙2章21〜22節)。
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブの手紙2章26節)。
ありのままのイエス様を信じ、行いの伴う信仰者を目指したいものです。
もちろん、人はすぐには変われません。成長には時間がかかります。
安易に、行いのない人を裁いたり、行いのない自分を責めたりしないで下さい。
神に祈って、助けを求めましょう。
人は赦され、愛されることで、本当の意味で成長し、変わっていけるのですから。
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「編集後記的メッセージ 『聖書のセットのメッセージを分割しないで』」
「信じるだけで救われる」という言葉がいけないのか?
いや、それは正しい言葉です。
しかし、「信じるだけで救われる」と聞いて、必ず誰かから出て来る反応として、「信じる以外に、何もしなくていい!」ということです。
しかし、一言メッセージで触れたように、信じる事と、信じた通りの行いは必ずセットなのです。
人は、心から信じている事を行うものだからです。
ところで、LGBTに対する聖書の言葉が間違って論じられることがあります。
聖書が「LGBTを罪である」と断じることに対して、「LGBTの人を拒否している」と捉えるのです。
決してそうではありません。
LGBTであろうと、キセル乗車をする人も、万引きをする人も、不倫をする人も、嘘をつく人も、同じように罪です。
そして仮に、非の打ち所がないように、真面目で、立派な人がいたとしても、神の目から見たら罪人なのです。
つまり、「LGBTが特別な罪である」と語っているかのように、論理をすり替えているのです。
LGBTは赦されない罪ではありません。
すべてのクリスチャンが、何らかの罪や悪習慣と戦い、葛藤し、神と共に向き合いながらもがいているように、LGBTもその一つです。
LGBTは生まれつきだから多様性として受け入れられ、尊重されるべきだとしたら、人が生まれつき持っている罪の性質はどうなのでしょう?
「私は、生まれつき多くの女性を愛したいのです」と言って、不倫を繰り返し、愛人をあちらこちらに持っている男性が、「多様性として受け入れられ、尊重されるべきだ」と言ったとしたら、その主張が受け入れられるのでしょうか?
「神は人を男と女に創造された」のです。これが神の創造の秩序です。
万引きやキセル乗車をしたら、法律に基づいて裁かれるように、LGBTは神の方に基づいて裁かれるのです。
しかし、同時に、LGBTが家族の中にいたとしたら、あるいは、それが自分自身だとしたら、対応が変わるようであってはいけません。
それが誰であろうと、神の前に膝をかがめ、憐れみを祈るのみです。
「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」(イザヤ42:3)。
「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ1:17)。
イエス様の恵みは罪を赦し、「わたしはあなたを裁かない」と言われ、イエス様のまことは、「もう罪を犯してはならない」と語られます。
「信仰と行い」がセットであるように、「イエス様が実現された恵みとまこと」もセットなのです。
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